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KOMIDASHI WO TSUKERO

ニュースや日頃考えていることなど

I will mostly address in Japanese or English on this page - apologies!

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Dernière mise à jour : 11 févr.


先週、ソウルは極寒でした。最高気温がマイナス 2 ℃という日もありました。私は思わず目をこすりました。でも紛うことなく、そこにはやはり「さいこう マイナス 2 ℃」と書いてありました...。あれ以上寒くなったら凍ってしまうかも...。こちらはいよいよ旧正月というタイミング。今年もよろしくお願いします。


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へび年、上の姪っ子が年女。あれからもう 12 年経ったなんて... 信じられない。




年末年始は、子と二人で日本へ。実家に行くのがこんなに近かったことなんて、未だかつてあっただろうか、否、ない...!!という感じで、まったく素晴らしかったです。最低でも 13 時間かかるフライトに対し、2 時間未満とは... 両目から鱗が落ちたぜ。ちなみに行きも帰りも同じく里帰り中の某歌手と一緒になり、『同じスケジュール!!😂』とちょっと面白かった。



子は 10 日間も日本で過ごしたので、さらに日本語が戻ってきてくれて、私は嬉しい限り。父も母も、子のためにゆっくり、綺麗に話してくれているのに、私は気づいていたよ。両親のそんな気遣いが、さりげなくて暖かい。感謝。



実家では、いつも和室のお布団で寝ているのだけど、実家のお布団の中で、久しぶりにぼぉっとして、ゆっくりした時間を過ごしていたら、気づきが降ってきてくれた。


前回告白した通り、あんなに大好きだった書が苦しくなってしまい、もしや何も書けないみたいな気持ちになっていること。自分の体力の無さと、不器用さのせいなのに、思うように書に対してエネルギーが捧げられないこと。振り返ると 30 歳になった年に、勤めていた会社から突然の戦力外通告をされて、放り出されて、パリで、個人の力で生きて行かなければならなくなり、右往左往した結果、フリーになることを選び、出来ることを我武者羅にやって、なんとか繋げてきたこと。


33 歳で子を授かって、妊娠糖尿病になりつつも、翌年無事生まれてきてくれたこと。そしてそこからの、想像以上だった子育ての大変さ。東京への引っ越し、新生活。コロナ勃発。新しい生き方の模索。



2 年半後、フランスへ戻る。子は幼稚園入学、家のトラブル、とんでもなく大きな仕事を任してもらえた、新しい家へ移る。やっとこれで順調かも... と思っていたら、コロナ後にやって来た経済危機の波に見事にもまれ、日本との仕事、フランスでの仕事が、立て続けに全部終了になる。困る。出来ることを粛々とする。3 年後、40 歳。韓国という新しい道へ... ←今ここ



という感じで、ざっと思いつくだけでも怒涛の 30 代だったように思う。うん、濃いよね?!ロールモデルがいなかったし、今もいない。ちなみにここには書けないけど、もっと辛いこともあった。(あ、こういうことこそ全部ちゃんと小見出しを付けて、箇条書きにすればよかった...)




こんなに激しく、大変だったのは、きっと自分のせいなんだろうと、自分を責めて、ずっと罪悪感に苛まれていた。そういう思いを抱えていても、目の前の子育てというものはストップが効かないし、落ち着いて考える余裕さえなかった。


今まで自分のことはタフだと思っていたけど、上記の仕事が全部終了になった際には、本当に参った。夢のようなチームで働くことはもうないのだと思うとさみしかったし、コロナを憎んだ。



だけど、実家のお布団の中で、なぜか冷静になれた。『いやいや、誰がどう考えても怒涛の 30 代だったでしょ... 少し燃え尽きて、当然当然』。やっと悩んでいた自分を、肯定することが出来た。それは、長く暗いトンネルをやっと抜ける手前まで来た、という感覚だった。



おかげで、これからの 10 年もまた走り抜けられそうな気がしている。日本という暖かな Home でゆっくり過ごせたおかげで、最高のリフレッシュが出来た。"リセット"とも言えるかもしれない。感謝しかない。



振り返ると、辛いこともあった 10 年だったけど、辛さを覆すくらい幸せなこと・楽しかったことに恵まれたなと、自信を以って言える。


学びはしっかり噛みしめるとして、明るいことだけ記憶していたい。あと私は、生き急ぐ傾向があるので、ここいらで少しペースを落としたい。



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今年は、ようやく念願だった絵を始めたいと思っています。ソウルでの画材屋さんもどこか分かったし、私がやりたいのは、アクリル グアッシュ画だということも分かった。(本当は油絵がいいのだけど、環境的に難しそうなので)



フランスからコンテナーで送った荷物は、まだ届いていない。トラッキングによると、2 月 1 日にようやく釜山港に到着予定、だそうである。本当だといいけれども... ちなみに 11 月中はずっとル・アーヴルの港でストがあって、積載出来なかったんだって☆ いかにもおフランスらしいエピソードである。。。



荷物が届いたら、道具を揃えに行って、家の中にアトリエを作りたい。書も出来るようにしたい。夫は夫で、自分のアトリエを作りたいと言っている。(彼はフィギュアを塗るので...)



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最近、週末の度にソウルの美術館やギャラリーをちょこちょこ訪ねていて、またアートに触れる旅が始まった、そんな予感がしている。ソウルには、伝統的な部分とポップアートを見事にミックスしたような現代アートが溢れていて、今見たいものの気分にも合っている。韓国のアーティストについても、まだまだ知らないことばかりだ。



なんだかこの 15 年程、デジタルの仕事をしている時以外、アトリエに通ったり、ギャラリーに顔を出したり... 時々は真面目に製作をしたり... いや、ただパリの街並みを歩いたり、ヨーロッパで息をしていただけでも、それはまるで、壮大な美術の勉強を、長い長い時間をかけてやっていたような気がする。あちこちで名作を鑑賞する機会も得た。



いつからか、何を見ても感じなくなってしまった、硬く閉じた自分の心を、解きほぐすことが出来たらいい。アウトプットするためには、インプットが必須なわけで、もの凄いエネルギーを必要とするけれども、今の少しわくわくした気持ちがあれば、春にボールが地面を軽快に跳ねるみたいに、またいい方向へ向かって行けるような気がしている。



自分の弱さ、体力の無さ、不器用さ... 嫌だなぁと思うけれど、すべて「肯定」してあげたい。どう繕っても、それも全部、自分自身なのだから。


初めて知る「肯定」には、強いパワーがあるみたいだ。




Again, I wish you happy 2025☀️


 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 3 déc. 2024
  • 6 min de lecture

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韓国に引っ越してくる前の、すっかり寒くなった 9 月のとある日曜日の夜。直前の会社で一緒に働いていた人が、パリで語学系のコミュニティーをやっているので、イベントに参加してきた。ちなみに日本語xフランス語と、フランス語x英語の会があるそうで、パリの言語系コミュニティーでは、ここが一番大きいらしい。出会った人みんないい人で、初めて、しかも一人で参加したからドキドキしていたけど、とっても楽しかった☺️ 日本人は今すごくパリで少ないので、喜ばれるはず。ぜひ行ってみて。(下のリンクをクリックするか、インスタでDMを送ってみよう!)




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事件はそこで起きた。一回目のテーブルで、奇しくも私の妹カップルと同じ業界で働くという男性と話す。自動車業界の話などをしていたのだけど、その人は突然、真顔で私に「君の趣味は何?」と聞くではないか。



その時私は、冗談でなく数秒間フリーズしてしまった... 『趣味...?しゅみ?なんかあった気がするけど、何だったっけ... 旅行もなんか違うような気がするし...』



「えっ、 子どもを寝かしつけた後、毎晩 YouTube とインスタグラムに行く以外でってこと?」と言って、笑いを取ったのだけど、この質問はけっこう響いた。なぜなら問題は、私は 10 年前まで「書道」が立派な趣味だったのだけど、ある時からそれは「仕事」になったので、最近全然書道を楽しめていない、という、私にとってけっこう深刻な問題があるからだ。



「好きなことを仕事にしたい・好きなことで生きていきたい」とはよく聞かれる言葉である。ちょっと前からのトレンドでもある。実際に、それで生きていくことができる柔軟な世の中になった証だし、それはそれで素晴らしいことだし、本人の才能次第なわけで。



私も、パリで書道を再開した時には、先生や、アトリエのレベルにものすごく刺激を受けて、それは突然やって来た雷のごとく、私は魅せられていた。『先生のように、書を仕事にしたい...!』と強烈に憧れた。無事、師範を取ったタイミングと関係あるのかないのか(それよりは諦めや勇気のような気もするし... )、時々ブランドのイベントに呼ばれて、ワークショップをしたり、ロゴのデザインを考えたり、ヘビーメタルバンドのミュージックビデオ用に綺麗なお姉さんの裸体に書いたりと、実にいろいろな仕事をさせてもらって、経験を積んだのだけど、ある時、私は確実に壁にぶつかったのだ。あんなに大好きだった書道が、「なんか、楽しくない...」



多方面から、仕事になったんだから、当たり前だろ!!甘えてんじゃねぇ!と突っ込まれるしかないと思う。えぇ、本当にその通りです。好きなことを仕事にした人は、みんなこの壁にぶち当たったのか、どうやって乗り越えたのか、教えて欲しい。ちなみに間違っても、「俺は書をマスターしたぜ!」とか思っているわけではないので、そこは誤解のないようにお願いいたしまする...。



「好きなことをずっと楽しみつつ仕事にする」、これは簡単そうに見えて、意外と難しいコンセプトのような気がしている。従来の考え方では、「生きていくための仕事、すなわち労働」と「好きなこと」は、あくまで相反するからなのか。



以前、BTS の V が、確か MTV アワードのステージで楽しく歌い踊るブルーノ・マースを見て、「あぁ、どうしてあんなに楽しそうに歌って踊れるのかな、すごいな、僕もああなりたい」と呟いたシーンが印象的で忘れられない。もしや V も、同じような悩みがあるのかな...?(もちろん、世界の BTS と現在ほぼ無職の私では、比べ物にならないことは十分承知しておりますのでご安心ください。ちなみに私の推しは V さんではなくて、WWH♡)


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いろいろ調べてみると、「好きなことを仕事にしては駄目、絶対にあとで辛くなる。そういう人はみんな苦しくなって、つぶれていく。好きは好きでも、"得意なこと"を仕事にするべき」という意見も目にした。なるほどねー。そこ、二種類あったのか.....



「そういう時は、思い切って離れた方がいい」という意見も目にしたので、正直に白状しよう。去年から、少し書とは離れている。。書を見るのは今でも大好きだけど、自分が何を表現したかったのか、分からなくなっているというか...。もしかしたら、また新しいミディアムを探す時なのかもしれないし、来年になったら念願の「絵」を始めてみたいと思ったりもする。



また別の同僚のお父さんは、日本人だけど、フランスで長年画家をされている。どうやって長年モチベーションを維持されているのかな、と質問すると、その人は教えてくれた。「彼の、今の夢は、死ぬまでに出来るだけ多くの絵を残すことで、毎日描いているんですね。自分の絵でいっぱいにしたい、そうなんですね」。聞くと、大阪のデパートでの個展も控えているらしい。彼のお父さんのように、(いい意味で)ある種狂ったように、情熱を持ち続けられる人のことを、心の底から尊敬し、羨ましく思う。私は一体どこで、情熱を失ってしまったんだろうか?年齢のせいにするのは、あまりにも簡単だ。



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というわけで、突然の「君の趣味は何?」。気がつけば無趣味の女になっていたわけで、こんなに悲しいことはない。Sad でもあり、pathetic... これにはいろいろ考えさせられた。でもそのおかげで、『そうだ、私は書くことが好きだったんだ... 書道でもライティングでも、私は書くことが好き』と思い出すことができた。記憶喪失なの?って感じだけど、これが私なのでどうしようもない。相変わらず意識は低いし... 。しかし、ちょうどタイムリーなことに、昨日久しぶりに会った韓国の知人に「マリの趣味って何?」と聞かれたのだけど、この事件があったおかげで、今回は自信を持って答えることができた!"Writing! I recently rebooted my blog, it's a writing blog, which was pretty dead..." ってね。



そもそも、あまり器用な方ではないので、ひとつのことに情熱が行っていると、もうひとつのことが疎かになってしまう傾向はある。熱しやすく冷めやすい。なので、この 10 年ちょっと、書に没頭していたけど、その間やはり、全然ライティングは置き去りになっていたわけで...。もう少し器用に、いろいろ平行してできるようになりたい。そう言えば大学生の頃とか、もっといっぱい書いてたな...。だけど、こうやってバランスを取りつつ、シャガールの、青の時代みたいに、人って、そういうフェーズがあったりするのかな、とも思ったりする。(BTS 然り、私と世界のシャガール先生じゃ、雲泥の差なのは承知していますけども...)



あ、今日も小見出しが全然付けられなかった...






※「どうしてまりちゃんは毎回小見出しにこだわっているわけ?」と思われる方のためへ。

私の書く文章がだらだらと、しつこく、読みづらいのは十分理解しておりまして、頻繁に改行するよう心がけたり(笑)しているのだけど、小見出しを付けないと、お父様から叱責が来るのよね... 昔から何か論文など添削してもらう際には、「文章には小見出しを付けて、読み手に分かりやすく!要点をすっきりと!!」というコメントが真っ先に聞こえてくるのだった...


 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 22 nov. 2024
  • 7 min de lecture

Dernière mise à jour : 3 déc. 2024


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朝ごはんの際に、子のトーストに、フランスから保冷バッグに入れて持ってきたエシレバターを塗っていたら、亡くなった祖母のことを思い出した。明治生まれの祖母も、バターが大好きだった。しかも九州の人だったから、好き嫌いがはっきりしていたので、「私はマーガリンでなく、絶対にバター」という人だった。


この祖母は、高校を出て 7 年間働いた後、見合い結婚で、会ったこともない私の祖父と、周囲に「教員だから、きっといい人に違いない」と言われて一人で結婚式を挙げて(!)、なんと当時、祖父が働いていた朝鮮、今の北朝鮮北東部・清津(チョンジン)の羅南へ渡った。祖母は私が世界で最も尊敬する人の一人だ。


私は幼い頃から、祖母の家で夏休みを過ごす度に、祖母らしい九州のアクセントで、時折「"ちょうせん"のキムチはね...」や「"けいじょう"がね...」といった単語が聞こえてくることがあり、幼心に『何の話をしているんだろう』とよく疑問に思ったものだった。もしかしたら、「ソウル」という都市名を知るより、「京城」という名を耳にしたことの方が多かったかもしれない。


祖母の言う「ちょうせん」が「朝鮮」のことだと分かったのは、かなり後になってからのことだった。私は祖母が、だいたい 1935 年頃から終戦までの 10 年間、今の北朝鮮、しかし当時、朝鮮はまだひとつの国だった... で、10 年もの月日を過ごしていたなんて、知るよしもなかった。祖母は、昔話をしていたのだった。


戦局が激しくなってきた際、北で英語教師として働いていた祖父は、なんとミャンマーへ出兵していたらしい。その間、祖母には、幼くして亡くなった長女の後に、母にとって上の兄三人がいて、一番上の兄(私にとっては叔父)が、当時 7 才。


日本の敗戦が色濃くなると、軍都であった羅南の日本人コミュニティーでは情報が早かったそうで、「ソ連が攻めてくる!早く 38 度線まで南下しろ!」と叫ばれ、大事なものや思い入れのあった着物... すべてその辺りの木の下に埋めて、三人の子を連れて、祖母は一人で引き揚げなければならなかった。


記録によると、列車でソウルまで行ったらしい。それから日本人学校(南大門小学校)が避難所だったので、二、三週間くらいいたと思う、と書いてある。ソウルにて、8 月 15 日を迎える。



ソウルまでの道中、一体どんな苦労があったのかは想像にかたくない。一番上の叔父はけっこう大きかったこともあって、終戦後、平和な世の中がやって来て、日本人が韓国へ旅行へ行くようになっても、絶対に京城(ソウル)にだけは二度と行かない、それはやはり、嫌な思い出が蘇るからで、断固拒否していた... という話をよく聞いた。一度は人混みの中で迷子になって、離れ離れになりかけたそうだし、「自分も一歩間違えれば"離散家族"になっていた」。


祖母はその後も列車で、なんとか釜山の港までたどり着くと、山口県仙崎港行きの船を待ったらしい。運良く出航したと思われた船でも、道中、攻撃に遭ったものもあっただろう。まだ朝鮮半島にいた頃、祖母は、青森出身の知り合いの女性に、自分の着物をもんぺにして渡し、「早く青森に帰った方がいい」と勧めたそうで、その家族からは、平成になってからもずっとお礼に、毎年立派なりんごが一箱届いた。


戦後に祖父母が移り住んだ、島根県西部の田舎町で、「あおもり りんご」と書かれた段ボールを目にするのは珍しいことだったので、私は子どもの頃に、「どうしてこんな遠くから?青森?」と聞いたことがある。母は、「昔、ちょっとご縁があってね...」と答えてくれたように思う。


大変な苦労をして日本へ引き揚げてきても、世間からはなかなか良い目で見られなかったそうだ。それは日本が戦争に負けて、日本にいる日本人でさえまだ食料がなく、十分に食べられていなかった中で、外国から帰ってきた日本人たちまで食べさせることなど、難しかったからだろう。


祖母は晩年、「(故郷の)熊本で、泣きながら麦踏みをしてね...」と語ったらしい。波乱と困難に満ちた、時代に翻弄された祖母の人生。晩年だけでもきっと幸せだったと思いたい。少なくとも、私と妹は、そんな祖母が無事日本に引き揚げて、その後さらに(私の母も含めた)三人もの子どもを生み、そのおかげで昭和の終わりに私と妹がこの世に生まれたのだから... 感謝しても仕切れないほど、命のリレーという言葉の重みを感じている。本当に、おばぁちゃんのおかげなのだ。


戦後、「引き揚げの苦労を、本に書いてみたら」と人から勧められても、祖母は毅然と、「日本人が他の国へ出かけて住んでいたのだから、占領された朝鮮の人の気持ちを思うと、私の苦労なんかなんでもないし、書けない」と言って断っていた。


とっても明るくて、賢く、食い入るように毎朝新聞を読み、フルーツが大好きで、時々は日本酒を嗜み、「私、死ぬまでに一回は"ワイン"というものを飲んでみたいの」と言ったり、恋愛の相談をしたりと、私にとって祖母は、年の離れた友達のような... 大好きな存在であった。


だからその祖母が、98 歳でついにこの世を去った時、そのショックはとてつもなく大きく、まるで心がしばらく空っぽになってしまい、仕事も手を付かなかったくらいだった。今でもよく覚えているし、毎日おばぁちゃんのことを思う。「あなた達の旦那さまに会いたい」と、私と妹に何度も伝えてくれたおばぁちゃん。あと半年遅ければ、妹の選んだ人に会えたのだけど... こればっかりは仕方がない。



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「朝鮮の人はすごく親切でね、市場なんかでも、お金が足りないと、「いいのよいいのよ、奥さん、お代はまだ今度で」って言ってね」や「朝鮮のキムチが美味しくてね」などとよく語っていた。祖母が言うこちらの人の優しさを、私も連日体験し、多分「カムサハムニダ」だけなら毎日 50 回は言っているだろう。


このエピソードを夫にすると、超現実的で超絶理系の夫は、私の話に共感することなく、「そりゃ宗主国の日本から来た日本人には親切にするしかないだろ... アフリカでも、白人が「アフリカの人たちって本当に親切」って口にするのはいかにも植民地主義者の奢りに聞こえるから、タブーだったよ」とか言っている。


そういう話をしたいんじゃないのに...!!思わぬ角度から思わぬコメントが返ってきて、ぐぅの寝も出せない。負けるな、私。若い頃に比べて、いろいろ経験したから、性善説を信じる節は少し減ってきたけど、それでも祖母は、決してそんな気持ちで口にしたんじゃないと思うのだ。夫め...



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祖母の死から約 15 年が経ち、2024 年になった今、私がこうして朝鮮半島へ住むことになったとは、なんて数奇な運命だろう。


そもそも、こちらの家系は、なぜか昔から外国と縁が深い。兄弟の中で 5 番目の叔母なんて、もう 50 年以上カリフォルニアで暮らしているし、日本育ちであれ韓国の人と結婚している従姉妹もいる。そして私と妹は、20 代中盤からはずっとフランスにいた...。


家には母による手書きのメモがあるだけだし、祖父母が住んでいた場所を訪れることは到底叶わないけれど、私は目撃したいのだ。祖母が体験した、戦火の前の、いくらばかりかはきっと平穏だった日々の暮らしや、人びとの優しさ。そんな、もう二度と目にできない、幻のようなものがまだ残っているとしたら、感じてみたいと思う。


「もしトラ」が「またトラ」という現実の悪夢になり、ウクライナで起こっていることが、今後我々をどんな世界へ向かわせるのか、緊張が漂う... 世界中で起きているすべての争いには、一刻も早い停戦を、歴史が大きくうごめかないことを、願うばかりだ。




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昨日、パリでは珍しく記録的な大雪が観察された。しかも妹いわく、同じ日に交通機関のストまであったらしい。あいにくこちらは珍しくない。妹や友人から送られてくる写真や、ソーシャルメディアで目にする雪景色のパリを見ると、『あぁ、こないだまで見慣れていた景色が... 今ではこんなに遠い。遠くまで来てしまった』と、複雑な気持ちになる。フランスに郷愁の念を感じる日が来るなんて。自分でも信じられない。しかしこれから数年間はここ韓国で、言葉も覚えつつ、新たに生活していかなければならない。



子にはやはり、平和で優しい世界を目にして欲しい。祖父母のような、国や、歴史に翻弄されて、青春時代さえまともに生きられなかった世代のことを思う。そんなことを考えながら、夕方になると、急ぎ足で学校へ子を迎えに行く。今のところ、至近距離で見えている世界は平和そのものだ。だがしかし、本当にそうだろうか?この建物はすべてはりぼてで出来ていて、そのすぐ裏の世界では、今でも戦いが止まない... それが現実に近い。


日々の、当たり前のことが、小さくて確実な幸せを作り出している。子の、小さくてあたたかい手を繋ぐ度に思う。なかなか、忘れがちだけどね。




 
 
 

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