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KOMIDASHI WO TSUKERO

ニュースや日頃考えていることなど

I will mostly address in Japanese or English on this page - apologies!

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Photo du rédacteur: Mari Okazaki
Mari Okazaki
il y a 4 jours
9 min de lecture

Dernière mise à jour : il y a 4 jours


キアラが死んだ。正確には死んでいた。暴力的で、直接的過ぎる表現で申し訳ない。二年前のある日、そんなニュースが飛び込んできた。


2024 年夏、韓国への引っ越しが濃厚になっていたが、まだフランスで暮らしていた頃のこと。ある日の夕方、いつも通り幼稚園に子を迎えに行って、一緒に帰宅すると、共通の女友達からインスタの DM が来ている。「ねぇマリ、知ってた...?」


一体何のことだと思って、慌てて見ると、リンク先にはキアラの旦那さんの投稿があった。


「キアラは二年間の闘病生活の後、7 月 XX 日、安らかに旅立ちました」


私は目を疑った。咄嗟に涙が溢れ、崩れ落ち、言葉を失うとはこういうことかと思った。



キアラとは、元々共通の友達から紹介してもらって知り合った。出会う前からも、なんとなくいつも話に聞いていた。私個人で日本からいただいたとある大型の仕事に、一緒に組んでくれるフォトグラファーが必要になり、探していると、友達が「それなら絶対キアラよ!」と紹介してくれたのだった。


マレ地区の近くにあるカフェで初めて顔合わせすることにして、私はドキドキしていた。初めて私個人で受け持った大口の仕事に、最適のフォトグラファーを見つけて、「いいもの」を納めなくてはならない...。出会ってみると、年も近かった私たちはすぐに意気投合した。


それから数年に渡り一緒に仕事をした。プロデューサーとしてまだ駆け出しの私と違って、キアラはとっくにプロだった。それも一流のプロ。ローマ出身で、パリにはもう 15 年近く住み、その間、名だたるメディアやブランド、ハリウッドのセレブにまで至って撮影していた。


キアラは私が依頼した仕事をとても喜んでくれたけど、キアラから見たら、私は本当に ”赤ちゃん” に見えたと思う。至らない点もたくさんあったはずなのに、怒ることなく、そっと教えるように、そして時には、クイーンのような素振りで自然に振る舞う。



あれはまだコロナ期間中、私がエッフェル塔の見えるホテルに何度も連絡し、苦労してやっと日程を調整したかと思えば、「月曜日はまだ女友達とサンマロにいるから撮影できないわ」と言ったり、「パタフィックス(撮影に使う小道具)を持ってないなんて!」とアシスタントを叱ったりと、キアラは私たちの女王様だった。


それでも、さらりと息をのむほど美しい写真を撮るキアラだから、なぜか許される空気があった。キアラはこうでなくちゃ、という感じもあった。私も他の子たちも、そんなキアラが大好きだった。


ロブに切った栗色の髪はゆるくカールしてなびき、ヴィンテージっぽい Prada の黒いサングラスをかけて微笑むと、足元は大抵カラフルな Nike のスニーカーで、真っ赤だったり、ショッキングピンク色の口紅が最高に似合っている。センスは抜群で、撮影用にとある高級カフェで頼んだカプチーノを見て「泡が綺麗じゃない」と言い放つ感性に痺れた。


私はキアラと一緒に働けることが嬉しくて嬉しくて、かっこいい彼女に猛烈に憧れたし、私もショッキングピンクが効いたスニーカーを買ったりと、こっそりキアラの真似をするくらいだった。ファン心丸出しで、今思うと情けない。



カリスマ性があるというか、クラス感があるというか、才能のみならず、人柄でも魅力が溢れる人だった。ある年の 9 月、キアラの 40 歳の誕生日パーティーに呼ばれた私は、19 区、ビュットショーモン公園にあるレストランの前に立っていた。パーティーには 50 人近くが集まった。私は一人で参加したので、前に一度会ったことのある子と喋ったりして楽しく過ごした。さすがクリエイティブカップルのパーティーで、片隅にはレトロなカメラで撮影するコーナーが設けてあった。



コロナが収束すると、日本からも、フランスからも、私のプロジェクトはすべて波が引くように終了してしまった。突然やって来た終わりは残酷だった。フリーランスは 5 年持たないという都市伝説は本当なのか... と落胆した。


キアラとは、別のプロダクトでも、また絶対一緒に組みたいね、出来たらパリで、二人でプロダクションを立ち上げよう。そんな話までしていたのに、このところ、なぜか疎遠になっていた。


私が単発で受けていた仕事で撮影に持ち込めないか、「オーガニック製品はどう?」、「アクセサリーは?」といろいろ WhatsApp で持ちかけても、キアラはいつも「お誘いしてくれてありがとう。けどイタリアの両親の具合が悪くて、行ったり来たりしてるし、私のことは当分、当てにしないで欲しい」とだけ言うのだった。


私はきっと、私が日本の仕事を失ってしまったから、キアラの気に障ったのかなとばかり思っていた。あの夏の夕方、真実を知るまでは。



DM をくれた友人に急いで電話すると、彼女も泣きながら同じようなことを口にする。


「私もまったく一緒よ... ここ数年、なぜか疎遠になっちゃって... 全然会ってなかったの。一度とある人をキアラに紹介してもらったんだけど、私には合わなかったし、詐欺師っぽい感じもあったから、『キアラ、あの人は危ないよ!止めた方がいい』って言ったのね、きっとそれで傷つけちゃって、私のことが嫌になって、疎遠になったんだと思ってて... まさかガンだったなんて」。


疎遠になったのも、ある時を境にひどく痩せたのも、髪の毛を突然ショートカットにしていたのも、全部ガンのせいだったのだ。あの明るくて美しく、才能に溢れ、ゴージャスなキアラは、まだたった 42 歳だったのに。病魔は私たちのキアラを奪って行った。以来、私はさらにガンが憎い。



祖父母や、年の離れた親戚などを亡くすのとは違って、同年代のキアラがこの世からいなくなってしまったと理解するのは容易なことではなかった。どれだけ戦っても勝てない病魔がいて、「健康が一番大事」、「健康はお金では買えない」など、陳腐だけどまぎれもない事実なのだと思い知らされるかのようだった。


さらに酷いことに、キアラにはまだ小学校高学年の娘が二人いた。葬儀に参加した友人は、ペール=ラシェーズ墓地の会場では、最期のビデオメッセージが流れたと教えてくれた。




2018 年秋、初めて一緒に仕事した日。



それから少し経って、私はブルターニュ地方のとある街にある合気道教室から、掛け軸を数本書いてくれないかと依頼を受けた。書く言葉は決まっていて、数パターンあり、掛け軸はこちらで日本から注文しますと言ってくれた。


依頼してくれた男性はフランス人合気道の先生で、年に 1 回茨城県へ行っては研修を受けているという人で、茨城で受け取った掛け軸 12 本が入った段ボールを、自分の手でフランスへ持って帰り、パリ郊外に住む私の自宅まで郵送してくれるという流れだった。



送られてきた掛け軸を受け取り、「合気道」とか「一期一会」という言葉をどう書こうかと、空(くう)を眺めていたら、キアラのことが頭をちらつく。


キアラに出会えて、あんなにも恵まれた、楽しい仕事を受けさせてもらえたのは、まさに「一期一会」だったのだ...。今までも何度も軸に書いてと頼まれたこの言葉だったが、私はもしかして、初めてこの時この言葉の意味と、深さを理解できたような気がする。もう二度と戻らない、魔法のような時間。



いざ、どういう書体で書こうか決まると、私は床に大判の下敷きを何枚も敷いて、準備に取り掛かった。墨もたっぷりと擦っていないといけない。





きっと、キアラだってもっと撮りたいものがあって、作りたいものがあったはずだ。美しいものが好きだった美しい彼女のことだから、志半ばで命を奪われるなんて不幸があっていいはずがなかった。正直に白状すると、私はこの頃、書への情熱が少し行方不明になっていて、しかし頼まれた仕事だし、落とすわけにいかないから、なんとかまた書に向き合おうと、もがいている時期だった。


もっと作っていたかったはずの人がもう作ることができなくなり、作れと言われている自分のやる気がないだなんて、クリエイターとして許されるはずがない。私はキアラの分まで、心身込めて作ろうと決めた。目の前の掛け軸はちょうど 12 本、一本たりとも失敗するわけにはいかない。


とは言え、私は柔道・剣道はおろか、合気道のことも何も知らないので、インスピレーションを受けるためにも、YouTube で合気道のビデオをいくつか見てみた。合気道があんな風にくるくる回って、風か、もしくは踊りのように優雅で、なおかつ相手をねじ伏せる強いものだなんて、まったく知らなかった。


白い着物の袖や黒い袴の裾が軽やかに揺れてついて回る... この様子を、字にも落としたい。出来た掛け軸を買ってくれるのは、きっと教室の生徒さんや、日本や武術ファンのフランス人に違いないけど、何て書いてあるのか分からなくとも、自然と「合気道」だと伝わるような... そんな字が書きたい。


いくつかの字体を試したり、いろいろ組み合わせたりして、一番しっくりしたものが出来上がると、私は一気に 12 本を書き上げた。思わず出た涙と汗を拭う。その時決めた。私はこれからも、キアラの分まで作り続けると。





この時期、よくこのピアノ曲を何度も繰り返し聴いていた。初めて年の近い友人を亡くしたせいで、新しい辛さを知ったし、明るいポップやロックなどが不適切なようで、しばらく聴けなくなってしまった。ピアノの音色は優しくて、そっと癒してくれるような反面、高いトーンを聞くとキアラが恋しくて心がきゅうとなる。


相変わらず、キアラを奪った病への憎悪もあった。もう何をしてもキアラは戻ってこない。しかも、(故人を責めるつもりではないが)何も言わずにこの世界からいなくなってしまった。仕事があってもなくても、もっと会って、もっと話したいことがあったのに。せめて病気なんだと話してくれていたら...


私はいつも格好悪く、憧れのキアラに追いつけ追い越せと焦っていて、きっとみっともなかったに違いないのに。どうして...

私がそんなすさんだ気持ちでいても、「いいのよ、ma belle」と言うイタリア語訛りのキアラの声がまるでどこかから聞こえてくるようだった。



今年私は 42 歳になった。キアラとは 4 歳差だったらしい。幸いにも一応健康で、ある日いきなり人生が終了させられるかもなんて想像ができない。去年は、大好きだった義父 R が亡くなった。クリスマスのあと急に具合が悪くなって、半年間、緊急入院や自宅療養を繰り返していたら、最終的には「こんな風には生きたくない」と本人の希望を叶える形になった。



R はいつも知的で優しく、目立つことが嫌いな性格で、いきなり現れた私をよくもこんなに信用し、愛をもって接してくれたなと感謝に堪えない。生粋のシャイな人なのか、とても遠慮がちな人だったけど、家に行くと奥の方から今でもひょっこりと笑顔で迎えに出てきてくれるのではないか、心だけは永遠に期待してしまう。テーブルにはいつも義父が座っていた場所が相変わらず残されている。けれど、肝心の姿は見えない。


控えめな人らしく、まるで何の跡も残さないようにひっそりと居なくなってしまった。そういう瞬間に、思い知らされる。もう彼はここにはいない。けれど、彼と過ごした記憶、微笑み、声、言葉は、私たちの中に残り続けると。


ぐっと涙を飲み込む。私が泣くと日頃から感情的なママ(義母、ちなみにイタリア生まれ)はもっとドラマチックに泣き始めてしまうので。



無残なほど、命は有限だ。そしてそれは普段意識することがない。



晴れた日の空の、雲を見かけると、きっとあの雲の向こう側に、キアラも R も、二人ともいるのかなと想像したりする。今すぐに会うことは叶わないけど、私はそれまで自分の人生をしっかりと生きると約束しよう — きっといつかまた会えると信じて。







 
 
 
Photo du rédacteur: Mari Okazaki
Mari Okazaki
13 août
8 min de lecture

Dernière mise à jour : 18 août


いろんな意味で全私が泣いた、かの伝説の舞台「アラジン」から約二週間後... 我々家族は、エールフランス航空の機内にいた。毎年恒例、夏のバカンスをおフランスで過ごすためである。


ソウルのフレンチスクールには、校舎の狭さから来るのか、はたまた需要がないのか、フランス本国と違ってバカンス中の「学童」がないため、親が二ヶ月間しっかり世話をすることになる。夫もさすがにそんなに長くは休めないため、だいたい 8 月は私と子二人で過ごすのが常だ。


最近は猛暑の日々もあるが、ヨーロッパの夏は気候もよく、街も田舎の景色もさらに美しく、目に優しい。戻ってこれて嬉しいおフランス。しかしその実態は、8 月になれば、韓国帰国まで一ヶ月程みっちりワンオペをするという、苦行と背中合わせ...!


私はまだ一人しか子がいないので、何人も育てていらっしゃる世のお母様方には、どれだけ尊敬しても足りない。甘ったれてんじゃねぇと石を投げられそうである。子も 8 才になったので、赤ちゃんのように癇癪を起こして泣くだとか、意思疎通が取れず辛い思いをする、ということも無くなってきた。


しかしうちの子の場合、なぜかひっきりなしにずっと喋っているという特性があって、それに付き合うのはけっこう大変だ。これについてはこの夏、謎が解けた。理由が分かっただけでもすっきりしている。




10 ヶ月ぶりにおフランスへ戻ってくると、あれだけ長く暮らしたはずなのに、最初の 48 時間はちょっとおかしな感じがする。


韓国でも、家や、学校や、友達とは絶えずフランス語で話しているというのに、フランス本国へ帰ってくると、どこか調子が狂ってしまう。言葉が出づらくて、もどかしい。だけど耳に入ってくる言葉は大体全部分かるという便利さもある。(韓国ではそういうわけにはいかないのでな...!)


街を歩いても、日差しの強さに圧倒される。写真を撮っても光量が違う。光と暗のコントラストが強くて、どんな構図でも絵になるようだ。



私の日本の両親から、フランスの亡き義父へ贈った花束。



韓国での仕事がハードで、ストレスが溜まっている夫は、「夏のバカンスは思いっ切り楽しむ」という熱い Nindô がある。「俺は前々から、コルシカ島へ行ってみたいと思っていた。大好きなビーチもあり、山もある。今年こそ行くぞ。Road trip だ!」と勝手に宣言している。




私は正直、コルシカ島と聞いて「ナポレオン」や「栗」、「イノシシ」くらいしか思い浮かばない。山は綺麗そうだけど、特にいつか行ってみたいというモチベーションもなかった。それに暑さも怖い。コルシカはここパリよりもっと下がって、ほぼイタリアくらい南にあるではないか。現に、コルシカのすぐ南にはサルデーニャ島(イタリア)もあるし。


暑さも怖いし、マフィアも怖い。なぜか島内にバーガーキングは出店しているが、マクドナルドだけは昔オープンしようとしたら、コルシカの人々は基本的に外資系資本を嫌うので、火を付けられた。なのでコルシカの若者は、マクドナルドが食べたくなると、マルセイユまで船で行って、港のお店へ直行しているという嘘か本当か分からない話を昔マルセイユ出身の同僚に聞いて、背筋が凍りっぱなしだ。



よくあるジョークか、笑い話だといいのだけど、真相は闇の中である。まぁマフィアに気を付けつつ(?)、名物の栗味の生ビールがテラスで飲めれば十分満足かな、と思っていた。


しかし、ぐねぐねとした山道を走っていたら、寝ていたはずの子も吐くし(おーらら)、あちらこちらのガードレールに FLNC(コルシカ民族解放戦線)とか、「イヴァン・コロンナ英雄」とかスプレーで書かれているのを目にするではないか。


道路標識の地名はフランス語とコルシカ語の二重表記なのだが、あちこちでフランス語表記の方がこれまたスプレーで消されている。なんとも微妙な気持ちになってくる。




最低でも五世代はコルシカ人じゃないと土地を買えない・家を建てることは出来ない、フランス本土の退職者が簡単に移住することは叶わない、などのエピソードも聞いた。これも現代では本当か嘘か分からない。レンタカーは、深い緑色が続く山の中を走る。住宅の数は限られているのが分かる。


今までの旅とはちょっと違う緊張感を感じつつ、終始過ごしていたのだけど、実際には観光で触れ合う人々は皆優しく、ましてや政治の話をする必要などなかったので、無事平穏に終わった。ほっ。それでも、コルシカの人々の気分を逆撫でするような発言は控えるべきだろう。



印象的だったのは、地元のレストランやホテルを経営する人々、コルシカ人の顔立ちが、フランス本土とはまったく違ったことである。


肌の色は綺麗に日焼けして、オリーブがかっていたり、細い鼻筋が通っている。髪の毛や眉毛は濃く、真っ黒なのに、目は緑とか薄いブルーなので、コントラストが美しい。誰もがはっきりとした顔立ちで、美男美女だった。うーん、ワイルド。



子は私と夫に似て、フランスの漫画(BD、ベーデーと読む)が大好きなのだけど、その中でも代表的な「アステリックス」シリーズが大好きである。


旅行前にコルシカをテーマにした話も読んでいたから、車の窓から実際のマキ* を見て大興奮。


(*マキ(Maquis)とは、地中海性気候の島に広がる、芳香を放つ固有の低木や灌木が密生した自然豊かな叢林(そうりん)および植生のことで、島の面積の約4分の1を占めるそう。Gemini よ、立派な説明をありがとう)






文化を保存しようとすると、どうしても必然的に閉鎖的になる。これは人間社会の掟なのかもしれない。隣で夫が、「日本にも、こういう土地ってある?」と聞いてくる。


面白い質問だなと思った。普段あまり意識することがないにしても、日本はすでに島なのだから、厳密にはコルシカとはちょっと状況が異なる。では、日本の中でも離島ではこのような特性があるのかな、と想像してみたが、なかなか思いつかない。仕舞いには、私はコルシカで、京都のことを思い浮かべていた。全然離島ではないが...




私がここだけは唯一行ってみたかった — 雄大な自然美が誇るピアナのカランケ。家族でトレッキングする。一番簡単な 1 時間半のコースだったはずなのに、実際には 3 時間強かかった。おかしいな...




レストランではイノシシ肉の煮込みがよく出てくる。付け合わせがパスタなのも面白い。やはりイタリアの影響だろうか。しかし昔、まさに地中海の向かい側にあるジェノヴァから攻め入られた経緯があるらしく、昔はジェノヴァを嫌っていたという逸話付きである。


そのせいか、後日カルヴィの旧市街で入った最高にかわいいカフェで、「クリストフ・コロンブはカルヴィ生まれ」とメニューに書かれていた。(厳密には、コロンブスは世界史で習ったジェノヴァ生まれなのか、その近辺の地方出身かコルシカ島なのか、はっきり分からないらしい)



登山中、ただ子の靴がずれて、音が鳴っただけなのに、夫がすぐ側の茂みにイノシシがいるかと勘違いして、ものすごく警戒していた。確かに、どこも森深く、イノシシの親子がひょっこり出てきてもおかしくないくらいだった。日本人の私としては、突進してくるイノシシも怖いけど、それよりクマが怖いので、コルシカにクマがいないことを終始祈っていた。ワイルドなコルシカのワイルドなクマとは、最強の組み合わせじゃないか。


幸いクマはピレネー山脈にしかいないらしく、出会わなかったが、道路で突然前の車が徐行するので、何かと思ったら、すぐ横の側道に、黒い雄牛がじっと立っていたことがあった。徐行が正解だろう。



ほぼ手付かずの自然の中を歩く。きりっとした顔立ちの人々を思い浮かべる。太陽が照りつける。帽子を被っていても暑い。どんな日焼け止めも効かなくて、すでに肌は真っ黒に日焼けしている。毎年恒例、私は「トースト」になった。


南西部にある農園の中にあった牧歌的なホテルでは 4 泊したのだけど、午前中数時間の太陽だけで、手洗いした洗濯物が乾いたっけ。




一度は、南部のビーチへ行くのにも、30 分ハイキングしてからでないと辿り着けなかった。途中、冗談でなく道無き道を行くという経験をした。そこは海であったり、林であった。こんなにハードモードなビーチは行ったことがなかったため、本当に驚いた。ワイルドである。それがここ。


苦労して辿り着くと、絶景が待っていてくれた。午後はずっと海で遊んで過ごす。







南部の有名な街、ボニファシオ。あまりの人気に、駐車場がなく、車で通り過ぎることしか出来なかった。岩壁が見事で綺麗だった。またいつかリベンジしたいと思う。




コルシカはどの街も、古来要塞の意味を兼ねているのか、見事に高台の中心部に出来ている。やはり昔は侵入者を警戒したんだろうな。10 分くらい登って、やっと教会がある広場に出ると、そこは石畳で、街の中心地だ。


助手席から早々と見たボニファシオの街も綺麗だったし、なんとか歩くことができたポルトヴェッキオの街は、あちこちにレトロな魅力が残っていて、カラフルで可愛く、ロマンチックだった。


ポルトヴェッキオはかなり街らしい街だったのだが、それでも、大型チェーン店やよくある高級ブランドの店舗も見かけることなく、あくまで個人経営らしい店が連なっていたのが印象的だった。ここにもコルシカ人の精神、現れたり。





どのレストランへ行ってもメニューは郷土料理ばかりで成立していて、パリのビストロで見かけるメニューとは大違い。サラダも、肉も、しっかりとしたコルシカの味を感じる。気骨があるという感じ。


どの海も綺麗で、水はターコイズブルーだった。水面はキラキラと光っていた。




熱い日差しの中、コルシカで体験したいろいろなことを、ぼぉっとした頭で考える。私なりに登山は頑張ったし、おかげで栗ビールが旨い。



コルシカはやはり、ワイルドであった。





 
 
 
Photo du rédacteur: Mari Okazaki
Mari Okazaki
8 août
6 min de lecture

Dernière mise à jour : 12 août


おフランスの学校は、私立か公立かにもよるけれど、大体 6 月の終わりか、7 月の第一週には終わって、長い長い夏休み、バカンスへと突入してしまう。一年のうちのでも、夏のバカンスが約二ヶ月あって、一番長いので、文字通り Grandes vacances(大きなバカンス)と呼ばれている。


バカンスに入る前、学校で子ども達による演劇の発表会があるのも恒例になってきた。去年は合唱だったのだけど、CE1(小学二年生)になった子のクラスは、今年はディズニーの「アラジン」だった。おフランスの担任の先生は、基本的には一緒に次の学年へ上がる、ということがなくて、毎年同じ学年を担当しているのだけど、去年は「美女と野獣」だったらしい。子の担任だった、まだ若い女性教師の趣味が完全に露呈している。



子はなんと、なぜか主役のアラジン役をもらってきた。厳密に言うと、まだ庶民のアラジンでなく、ジャスミンの気を惹きたいがあまり、王子様の振りをし始めるアラジンからである。


ということは、かの有名な “The Whole New World” のフランス語版 “Ce rêve bleu” を、ジャスミン役の子とデュエットするという大役まで果たさねばならなかった。これを聞いた時の私の率直な感想 — 子には到底言えない — は、「これはガチでヤバい」。



正直、 “The Whole New World” は、大人がカラオケで歌うにも難しい歌である。うちの子は、しょっちゅう飛び回り、体力だけは果てしなくあるので、運動に関しては心配していないのだが、音楽は... 音楽だけは... 超絶理系の夫(これまた超音痴)に似たのか、子の一番の才能ではないのだよ!!(※あくまでも、柔らかく表現しようとしています)


これを知った数週間前から続く、親の方の緊張感よ... 君は想像できるか。





前出の担任からは、本番の十日前に「できる範囲で、こういう衣装も各家庭で用意してくださいね」とさらりとメールが来た。


私は家にあるもの+リボンなどを買って、作ろうと思っていたのに、夫が「舞台の衣装は大事だ!これは息子にとって大事な日になる!子の大事な日に、出資せずにいられるか!」などと声高に叫び、結局、クパン(韓国版Amazon)で、まさにアラビアンナイト調のコスチュームを買うことに。


あざとい母としては、今年のハロウィンまで着れるように、少し大きめを購入。





当日、最前列に席を確保した私たちは、20 分近くに及んだ劇を、しかと見つめていた。


「やっぱりちゃんとした衣装買ってよかっただろ... 」と、隣で夫が得意げにしている。歌の出来は、衣装でカバーだ、とでも言いたそうである。子どもたちはみんな一生懸命で、とてもかわいい。なぜか同じような衣装を着たジャスミンプリンセスが複数人わらわらと出てきたのも、かわいかった。


しかし、私が一番驚いたのは、子どもたちの健気さではない。「フランスの子は、どうしてこんなにも音痴が多いのだろうか」であった......... 



いやね、今までも、うすうすは気づいていたよ。去年の合唱でも、『うっ...?!』となるシーンは多々あった。しかし今年は演劇、コメディーミュージカルである。歌はとても大事だ。セリフに気持ちがこもってないとか、我々オーディエンスの保護者の方でなく、舞台の前の隅の方で、必死に指示を出している担任の先生だけを見つめてセリフを読んでいるとか、そういったことは、どうでもいい。すでにディーテールと化している。...「音程」と「リズム」はどこへ行った?!w



去年亡くなった、大好きだった義父が常々、生前口にしていたのを思い出す。「フランスの教育は、国語と数学にだけ重点を置いているから... 体育や音楽などの芸術点は、各家庭任せになり過ぎている」と。私はその言葉を聞く度に、まだ子が小さかったこともあって、おフランスの学校とは縁遠かったので、ピンと来ていなかったのだが、今なら分かる。『パパ、あれはそういうことだったのね.....(涙)!!』と。



確かに、今までのおフランス生活でも、「音楽一家」というのはどこか別カテゴリーで存在しているというか、一目置かれている空気があった。そういった家庭は両親ともコンセルヴァトワール出身だったり、はたまたコンセルヴァトワールで教えていたり、そうすると自然と子どもも、放課後や土曜日は、音楽中心の教育を受けている、というシーンに出くわしたことがあった。バレエなどのダンスも同じである。



平成の日本で育った私には、ほとんどの女子がピアノ教室か書道教室に通っているのが当たり前の光景だったので(そして自分もその一人だったのだが)、「放課後に音楽を習わせるのはちょっと特別な選択肢」というフランスの事情を、肌で感じるようになった。


平成の日本は、ピアノブームだったのだろうか?もちろん、フランスでも、とりわけピアニストの家庭でなくても、ピアノを習わせている家族は一定数存在しているし、柔道も人気のお稽古事だ。上の姪っ子も、バレエを続けていて、叔母としてはとても嬉しい。



脳内で、義父の言葉を噛み締めていると、目の前のアラジンがどんどん展開されていく。自分たちで引っ張り出して来た魔法のじゅうたん、借りてきたアラビア風のランプ、青い衣装に身を包んでジーニーに扮した息子の友達... めくるめくしかけに、後ろで妖精に扮した子どもが数人、左右に揺れては歌っている... やはり、大多数のトーンがずれている。



かつて、私の母は言った。「フランスってシャンソンの国でしょ。シャンソンもぼそぼそ喋るように歌うじゃない。その影響もあるんじゃない?」。確かにね。声楽と言えば、お隣のイタリアだし、そこには、抑揚やアクセントがはっきりしている言語も関係していそうだ。


ソウルで知り合った台湾人のママ友は、ロンドンで美大へ行き、デザイナーとして働いていたので、とても綺麗なイギリス英語を話す。「フランス語はアクセントがどこか分からない、どう読めばいいのか分からない」と言う。「フラットに、書いてあるまま読めばいいんだよ、イタリア語とは違うからね」と答えたら、納得してくれたっけ。


それをまるで裏付けるかのように、ほとんどのフランス人にとって、英語のアクセント (accent tonique という) がどの位置にあるか判断する・覚えるのは、ちょっと “難しいこと” になっている。



どんなに音痴でも、子どもはかわいい。必死に先生を見つめて、喋り、踊っている。子どものかわいさが、音程が外れていることなど、かき消してくれるかのようだ。



いよいよ、肝心のシーンになった。 “The Whole New World” のフランス語版 “Ce rêve bleu” 。青い夢。ドキドキして、夫とステージを見つめると、やはり懸念した通り、子の声が圧倒的に小さくて、ほとんど聞こえない。


この一ヶ月... あれだけ車の中でも “Ce rêve bleu” を頻繁に流し、一緒に歌い、練習して、家でも iPhone を見つめて練習し、いやがる子をよそに、母は勝手にジャスミン役を買って出て、歌った。隣で夫も「いい?音を外してもいいから、大きい声で歌うんだよ?はっきりとね!」と特訓したのに、完全に吹っ飛んでいる。毎晩シャワーの中でノリノリで歌っていたテンションはどこへ行ったのだ。


隣でジャスミン役の女の子は、まるで CD から飛び出してきたかのように、音程も確かに、堂々と歌い上げていた。声量もある。私は彼女が、一瞬 Disney チャンネルから飛び出してきたのかと思った。しかも、この子の両親は韓国系・日系のアメリカ人夫婦で、ソウルでも米軍基地の中に住んでいる。フランス語は、あくまで学校で覚えた言語なのだ。子どもって、すごい。



いろいろな涙を堪えて拍手を送ると、子どもたちは皆満足げな表情で、ステージ上に並んでいる。小さな花束を持って駆け寄る親もいたり、写真を撮るのに忙しい。今年の夏は、アラジンのアルバムを何回聞いただろうか... Apple Music にあってよかった。まったく劇団四季もびっくりの、夏の始まりであった。


 
 
 

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