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KOMIDASHI WO TSUKERO

ニュースや日頃考えていることなど

I will mostly address in Japanese or English on this page - apologies!

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  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 10 avr.
  • 8 min de lecture

せっかく今しか暮らしていないのだから、日々の韓国生活についてもっと気楽に綴ることが出来たら... モチベーションも消えがちだし、書いていないとライティングのテクニックみたいなものも忘れがちになるので、もっと自由に!と思うのだが、韓国のことを書こうとするのは、至極難しい。


韓国でできた友人のことを傷つけたくないし、自分の国・日本のことも尊重したい、ちょっとした板挟みに遭うようだ。



(不定期ではあるが)ソウル市への原稿書きの仕事があったり、どこの国であっても、なるべくなら通り過ぎ去る者のようにではなく、しっかりと根を張って生活してみたいと思っているので、そんな自分の気持ちに応えるためにも、ネガティブなことは書き残したくない。


しかし、最近こんなことが続いたからだろうか。今日だけはちょっと例外的に、センシティブだけど一種の ”挑戦” として、書いてみたいと思う。


*気分を害された方がいたら申し訳ないです。個人的なフィードバックも大歓迎です。




気が付いたら 10 年以上、アジアから遠く離れたフランスで暮らしていたから、こちらでの日本への扱いに、時々びっくりすることがある。それは韓国では、私が経験した範囲では、日本という存在が現れる時、それは決まって「過去のコンテクストが多い」という点だ。


冬の間、近所のイタリア人家族の家で開かれたアートイベントへ出かけてきた。北朝鮮にいる画家たちが、どういう活動をしているのか追った人(イギリス人ジャーナリスト)がいて、その発表を聞くためだった。





プレゼンテーションの中でも、日本は過去の、「悪」の扱いだった。地理的に近く、何より侵略の歴史を介したために、日本は相変わらず悪の存在として話題に上がる。フランスでは、どんな過去の日本の話題でも、20 世紀の軍国主義の日本が話題に上がることは稀な上、北斎でも、フジタでも、決まって称賛を以って語られることがほとんどだったことに慣れ、疑問視さえしていなかった私は、韓国での扱いが未だに違うことを学び、驚いた。


歴史はとっくに風化しているだとか、過去のことはもう忘れようなどと、ご都合主義なことを言いたいわけではない。私は現在起こっていることも含め、侵略主義には反対だ。1935 年から 1945 年までの 10 年間、ここよりもっと北の街でたくましく暮らし、必死の思いで三人の子供を連れ、日本へ引き揚げた祖母が生前ぽつりと言ったように、「攻めて行った日本が悪い」と、まったく同意見を有しているからだ。



祖母のことも、私個人では誇りに思い、感謝し切れない程だが、韓国の人からしてみれば、「いきなりやってきて統べ始めた日本人が、戦争に負けて、勝手に帰って行った」くらいの出来事でしかないので、こちらでは、よっぽど仲良くなった人にしか話さないようにしている。


どれだけ韓国生活が辛くても、それは韓国のせいではなく、自分の努力不足で、「韓国のことをもっと理解したい・好きになりたい。韓国を憎みたくない」という気持ちでいる。(相変わらず言葉は最低限しか出来ないけどな...!)


言葉が出来ないことから来る、思うように話せない・簡単な質問さえできないストレス。時々漠然と感じる寂しさや虚無感。働きたいのに働けない現実。そのいろいろが重なる。(言い出すとキリがないのでやめます...😂)


そんな時、超絶理系の夫が、ある日突然 Netflix の「脱出おひとり島」にハマって、毎晩一緒に見たりして、「やっぱり韓国の一番いいところは、面白いところだよね」などと笑って、『あーやっぱり韓国も楽しいなぁ、もっと好きになってきたなぁ』なんて喜んでいたら、あいつはやって来る。



語られるのは、いつだって過去の日本。軍国主義の、昭和の日本。日本人だって忘れ去りたい過去の汚点。


あれ、数年前に、「韓国から日本への旅行者が過去最大!」、「韓国人の日本への好感度が過去最高」って嬉しいニュース、出てなかったっけ?一体どっちのデータが本当なのか、分からなくなってくる。日韓関係が今よりもっと緊迫していた — しかしそう遠くない —  「No Japan! 運動」時代に、「日中は反日デモ、でも夜になればアサヒビール」などという皮肉も生まれた。


こちらで出来た友人の一人は、もう 20 年近くソウルで暮らしている。一昔前は、レストランで日本語を話していると、隣の席からお皿が飛んできたと教えてくれた。彼女のインドネシア人の友人は、インドネシア人なのに、自分と一緒にいたせいで日本人に間違えられて、靴を投げられたらしい。


日帝時代から唯一残る建物の一つであるソウル市庁舎には、大きなガラスで出来た波の新建築が覆いかぶさっている。赴任してすぐの頃、近くで働く夫の同僚が教えてくれたそうだ。「俺たち、前の建物は嫌いで... 古いのは飲み込んでしまわなきゃ」。 もっともである。





その節は、調子に乗った日本が本当にすみませんでしたと代わりに謝りたいくらいなのだが、こんなに平和主義で低姿勢で生きようとする私にも、あいつはやって来る。しかも、それは全然予期していなかった街中で起こる。


日本人のママ友と電車に乗っていると、機嫌の悪そうな女性会社員に突然暴言を浴びせられた。私たち三人がうろうろ歩いているのが気に食わなかったらしい。韓国語の出来る友人によると、「"旅行するなら一人でしろ!"と言っていた、特に日本人だからという発言ではなかったけど...」 とのこと。


また別の日には、同じ日本人のママ友数人でランチをしていると、隣の席から感じるきつい視線に気づく。先日は、横断歩道で信号待ちをしていたら、友人の背後から、ものすごい目で睨みつけられた。彼女は私を力強く睨みつけると、そのうち群衆に紛れて去って行った。


あんな目を突然、初めて「当てられて」、私は困惑した。彼女は日本語を話す我々を見て、何を思い、「私の姿」に何を見たのだろうか。正直に言うと、2026 年のソウルで、まだあんな目に遭う可能性があるなんて、思ってもいなかった。彼女の家族は、日本のせいで辛い目に遭ったのかもしれない。ソウルの下町で日本語を話す私の中に、その憎悪を重ねたのかもしれない。





フランスでは経験したことがない視線だったので、こういうことに出くわすと、毎回ひどく混乱してしまう。それは、きっと私個人に当てられたのではなくて、日本語を話す者=悪というロジックだと理解しようとしているけれど、難しい。戦後 80 年以上が経過し、どこからか戻ってきたブーメランを突然がつんと額に浴びた気分。夫も決まって、「気にしないで。C’est pas contre toi. (君個人に対してじゃないでしょ)」と励ましてくれるけど、頭の理解と感情が一致しないのだ。



エンジニア学校を出た後、とあるアフリカの国で一年間働いていた夫は言った。


「アフリカでもあるかな、フランス人って知ったら、今でもイヤな顔されるかな?両親は 70 年代のアルジェリアの、しかも地方で 6 年も暮らしていたけど、同じような目に遭っただろうか。今度聞いてみよう」。


「それでもさ」と夫は続ける。


「どういう経緯であっても、侵略して行った国が悪いよ、そもそもそこに住んでた人がいて、国があって、行くべきじゃなかったんだから。時々アフリカに長く住んでるフランス人でも、『俺たちはインフラを整え、病院も作ってやった。生活はぐっとよくなった』って驕り出す人がいるけど、そういう見方は良くない」。


「それは私も分かってる。同意見で賛成よ。そういうネトウヨみたいな奴にはなりたくない。それなのに、私の主義や意見を知らず、攻撃してくるのは、どう理解したらいいわけ?これで一日イヤな思いをして、自分の時間をロスするのもイヤだし。」


「私を睨んできたおばさんは、きっとこれだけ韓国人に日本が旅行先として人気になっても、絶対に日本には行かないだろうし、きっと一生行くこともない。もしかしたらどこの国にも旅行しないような、狭い了見の人かもしれない。そういう人が世界にいるって知るだけでも悲しくなるの」。

私は言った。


一体どうしたらよかったのだろうか。暴言を浴びせてきた会社員は、スーツなのにパーカーを被り、足は素足という、おかしな風貌だったから、関わるべきではないだろう。友人も動揺していたが、「きっとあの車両に乗っていた人全員が、私たちの味方だと思いますよ」と言ってくれた。


横断歩道で睨んできた女性には、「私の祖母はね...!」と、反論した方がよかったのだろうか。いや、それこそ私が頭おかしい人に見られるしな。ますます正解が分からなくなる。どれだけ理不尽でも、「耐える、そして忘れる」しかないのだろうか。


自分の国が犯した過去の過ちを、全然関係のない私個人が現代での清算を求められているような、誤算だった。韓国の深層的な部分は、いつまで過去を生き続けるのだろうか。どう受け止めればいいのだろうか。



年始から立て続けにこういうことが起きると、過去の日本の振る舞いや、日本が今も悪であり続けるのは、私にも一責任があるような気がしてくる。個と国家(全体)を混同したくないと日々思っている。しかし現実には、これを混同して、同じレンズで見る人々がいる。


同じ理論で言えば、私が遭遇したこうした人々は、今の韓国社会の一部分でしかなく、決して全体を示すものではないと、揺れる自分に言い聞かせなければならないだろう。




ソウル北部にある安国駅の構内を歩くと緊張する。休暇中の若い軍人の姿や、両側に、これでもかと旗が多くかかる大通りを通ると、ここは韓国なのだと思い知らされる。タクシーの中や、墓地の中など、日本語で話すのを控える時もある。


と同時に、ソウルでは、初対面で「僕は東京が大好きで、ハイボール作りなら任せて!」と笑顔で言ってくれる人や、「いわき市に一週間ボランティアへ行ったよ」と教えてくれる、あたたかい人々に出逢ったことも事実である。



私は、何も知らなかったのだ。親日家の国でぬくぬくと温水を与えられて育ち、生まれ育った東アジアでどう見られるかなんて、深く考えたことがなかった。



私が AI だったら、80 年後にやって来たブーメランを、いくらでも受け止めてあげたい、しかし実際には不可能だ。私は感情のある、生身の人間なのだから。


ちょっと厳しい、ソウルでの二回目の春だ。

 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 7 janv.
  • 5 min de lecture

新年、明けましておめでとうございます。今年もみんな元気で、穏やかに、幸せに過ごせますように。世界が少しでも平和に近づきますように。今年もどうかこのマイペースなブログに、優しくお付き合いをお願いします。



ソウルでクリスマスを過ごした後、子と二人で実家に 10 日間程帰省した。行きのフライトが飛行時間なんと 60 分で、改めてびっくり。地理的に近いこともあるが、こんなところでも韓国のパリパリ文化を感じるとは...


実家では、年明けに久しぶりに大雪が観測された。20cm も積もった。庭は厚く白い雪で、すっぽりと埋もれていた。実家にいると歩く機会も減るし、よろしくないので、自発的に雪かきもしてみた。数年前にフランス中部のスキーキャンプへ連れて行った際は、全然雪がなくて、人工雪を降らせていたくらいだったから、初めて見た本物の雪に、子は大興奮。いい思い出になったといい。




新年を迎えたけれど、新年の抱負みたいなものは去年のうちに決めてしまったし、「スタート」よりも、今は「後半戦が始まる」と言う方がしっくりきている。なんだかやっと「スタートライン」に立ったような気持ちもしている。


なぜかと言うと、(少し気が早いけど)1 月が終わると、韓国での生活がちょうど折り返しになり、残り 1 年半になるからだ。どうやら延長戦はなさそうで、最近、夫ともこのことをよく話す。韓国に来てからもう 1 年半が経ったなんて... 信じられない。



というわけで、何かが劇的に変わったわけではないけど、静かに、次の区間へ入っていくような感覚がしている。お正月にテレビで流し見た、母の好きな箱根駅伝を思い出すな。残り 1 年半と言っても、次の赴任先が決まり、本格的に動き出すのは来年に入ってからだろう。学校のリズムで考えると、今年もあと、わずか半年。7 月の第一週には、長い長い夏のバカーーンスが始まってしまうからだ。3 年て、長いのか短いのか... ずっと慣れずに、頭が混乱している気がする。



目的地が決まっていないからと言って、止まらずに、進むことを意識したい。何の反応がなくても、「挑戦」って小さく書いた小石みたいなものを、まるで水面に残る余韻のように、投げ続けたい。そこから小さく余波が広がって、届いた先で新たな反応みたいなものが起きたら、それは一体どんな色をしているんだろうか。楽しみだ。



言葉の分からない国で暮らすということ。似ているように見えてまったく違う文化。現在進行形の冬の寒さ... 今は辛くても、きっとあとで振り返ったら、やり切った自分を誇りに思えるだろう。優美な馬のように、焦らず、着実に歩んでいけたらいいな。







地元の神社で出たおみくじ。心に響く内容だったのと、「愛しぬくこと」って、キャ!




15 キロぴったりに収まったスーツケースの中には、半紙が 500 枚入った箱が 2 つ入っていた。手に取ると、久しぶりにこのずしっとした重みを感じた。書道教室をすると決めてから、去年のうちに、フランスから持ってきた道具をきちんと並べて、何があるのか、何が足りないのか整理をした。


先生から譲り受けた、緑色で大判の、毛せんの下敷き。放ったらかしにしていて、ごめん、と、まるで毛布のように抱きしめた。大事な筆たちも、筆巻きの中でちゃんと待っていてくれた。筆たちは決まって「まりちゃん、もうこんなに長いスランプは止めてよね。私たち、暗いところにいるのは嫌よ」とでも言っているかのようだった。



12 月のうちに、ソウルの仁寺洞エリアにある書道用品店をすべて回ってきた。夫が近くで働いているので、車でオフィスまで一緒に行って、寒い日だったけれど、あとは歩いて回ってきた。あの界隈にある、ありとあらゆる筆屋、紙屋、硯などの道具屋... 言葉もろくに出来ないのに、勇気を出してその全部に入ってみて、いろいろ触らせてもらった。中には、「その硯は、わしが作ったんじゃ。こっちはたぬきの筆」と優しく教えてくれる老店主にも出会った。



韓国製の国産の筆もあれば、中国製も大量に置いてある。以前、広島の熊野を訪れた際に、日本でも山羊の髭など、原材料はもう取れないので、すべて韓国や中国からの輸入になると聞いたことがある。



驚いたのは、韓国にはいわゆる「半紙」サイズの紙が存在しないこと!なんと半紙は、日本オリジナルだったのである。道理でどのお店に行っても、紙は、まるで全紙を包んだ反物の状態で平積みされているはずである。「このサイズはありませんか?」と聞いても、「ない、ない」の返事。「必要なら切るよ」と言ってくれたお店もあったが、「切って作ってあげてもいいけど、これだけ手数料取るよ」と感じの悪いお店もあった。(残念ながらその感じが悪いお店で、絵筆を洗う黄色いバケツを買ってしまった...私ってば甘過ぎるぜ)



というわけで、地元の書道用品店に、一年の最後の営業日に飛び込んで、半紙計 1000 枚買う、それも二種類の違う紙を。という暴挙に出てみた。お店の人は丁寧に、「これは滲みが出て、こういう感じになります。これは漢字向けで...」など、丁寧に説明してくれた。小さい店だが、あのお店は私にとって、台湾に次ぐくらい書道パラダイスである。教本や文鎮など、中古品も大量に売って下さっているのがまた素晴らしい。連れて行った子が、何か割らないか心配していたのだけど、楽しそうに篆刻用の石などを眺めていたので安心した。


半紙だけは今後も、二ヶ月に一回帰省できるのをチャンスにして、毎回買って帰らなければならないだろう。紙だけはいくらあってもいい。慣れたらそのうち、仁寺洞のお店で切ってもらいたい。... 感じの悪いお店は避ける。






 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 9 déc. 2025
  • 11 min de lecture

Dernière mise à jour : 10 déc. 2025


「まりちゃん、韓国語やめるってよ」という直球タイトルにしようか迷ったが... 思わせぶりな、詩的タイトルにしたい欲が勝ってしまった。皆さん、お元気ですか?ソウルは早速極寒に突入しかけているよ。



前々から、家族や親しい友達には打ち明けてきたのだけど... 韓国語の勉強が、本当に辛い。どうして同じ東アジア出身で、日本語が母国語だというのに、こうも辛いのだろうか。私はどうして韓国語との親和性がこんなにも無いのだろうか。


しかも韓国語の語彙は、大多数が中国語と日本語を起源にしていて、文法だってかなり日本語と似ているし、「こんなにも日本人にとって学びやすい言語はないよ」とまで言われるくらいなのに、今まで韓国に移り住んで、ぺらぺらになった日本人やフランス人を複数知っているというのに、私に言わせてもらえば「それなりに、超難しい」と言うしか他ならない。



話は遡るが — 私は小学校五年生の頃、なぜかその時期だけ、突発的にラジオを聞くことにハマっていた。誰がくれたか、小型ラジオ(しかもデジタル目覚まし時計付き)みたいなおもちゃが突然手に入ったせいで、日曜の午後など、お昼ごはんもそっちのけに、部屋でひたすら FM ラジオを聞いていた。暗い子...😂 



思えば、一番最初に韓国語に触れたのは、おそらくその頃だろう。私は山陰地方で育ったこともあって、夜になると時々朝鮮語の放送がキャッチできることがあった。ノイズ混じりにかすかに聞こえてくる言語は聞き慣れないもので、隣にいた父に「これ何語?」と聞いた記憶がある。あれはどちらの国の朝鮮語だったのか... (おそらく南の言葉だとは思うが)


海辺で遊んでいると、ハングル文字が印刷されたペットボトルを拾ったこともあった。今思うと、ソジュ(焼酎)のボトルだと分かる。初めて見る、どう読んでいいかも分からない文字で困惑したのを覚えている。



海に来ると、決まって父にいつも質問した。「ねぇ、この海の向こうにイギリスがあるの?」。父はなぜかイギリスが好きで、まだ幼稚園児だった私と妹を置いて、イギリスの田舎にある日突然、短期ホームステイに出かけたくらいだったので、幼い私にとっては、漠然と「海の向こう=イギリス」という図式が出来上がっていたのである。(ていうか 80 年代後半の日本で、娘二人のワンオペを妻に託し、イギリスにホームステイしに行くって... 義姉が聞いたら怒りそう😂)



父は決まって、「そうだよ。でもその前には、韓国や中国、ロシア... そのずーーーっと向こうにイギリスがあるんだよ」と教えてくれた。幼い私は、山陰の、なんでもない海岸沿いから遠い海の先にあるらしいそういった国々について、想いを馳せていた。その頃から、ぼんやりと、遠い外の世界に対して強く興味を持つようになっていったのかもしれない。



それから月日は流れ、私は京都で大学生になっていた。日本全体に、K ポブームの到来である。久しぶりに帰省すると、そんな私を察してか、父がさりげなく、ハングル文字が簡単に読める本というものを貸してくれる。「いろいろ読んだけどね、これが一番易しいよ」とか言っている。


確かに、漫画形式で、絵と合わせて書いてあり、この本のおかげで、数字・記号が苦手な私でもすぐに理解できた。システムの理解と、この形の母音は N で、この形の子音は A だとか、組み合わせで出来ている — そういった風に。



K ポップのみならず、世界的に韓国映画やドラマなどの韓国語コンテンツが大人気になると、圧倒的に韓国語に触れる機会が増えた。そうやって過去 5 年以上を濃密に過ごしていたら、日本語と似ているおかげで、字幕があれば、なんとなく意味が分かるレベルにも達した。


しかし、未だにきちんと体系立てて勉強したことはない。その時はまだ、2024 年に、約 15 年に渡るおフランス生活の後、まさか韓国へ引っ越すことになろうとは夢にも思っていなかったのである。





2025 年の年明けから、ここソウルで、私の本格的な韓国語の勉強が始まった。長期滞在者には、韓国政府が無料で授業を受けさせてくれるという有難いシステムだ。実は、始めの placement test で、「下から 2 番目のクラスへ入ってください」と言われたのだけど、うっかり返信を怠っていたら、「もうそのクラスは定員で埋まりましたので、一番下のクラスへどうぞ」と言われた(笑)。


定員の意義とは... って感じであるが、ぼやぼやしていた自分の責任なので、仕方ない。しかし、これが逆にとてもよかったのである。なぜなら、これ以上ない超初級のクラスなので、先生は、母音の発音・音の違いから徹底的に教えてくれたのである。テキストで見て勉強するだけでは到底分からなかった。「ウ」の音でも全然違うんだな、中国語っぽい感じもするな、やっぱり近いだけあるな、と感じたり。


さらにラッキーだったことは、センターの中でも最高の先生に出逢ったこと。生徒たちは「他の先生は遅刻にも厳しいし、授業は硬くて、全然楽しくない。友達はみんな止めちゃった」とかよく噂話をしていた。


それからアルゼンチン、バングラデシュ、インド、オランダ、デンマーク、フランス、オーストラリア、フィリピン、イラン人の親子、そしておフランス経由日本出身の私... 大体 12 人くらいで構成されるクラスメイト。



皆、いろいろな理由で韓国に来ていた。奥さんが韓国人だという者、カンナムで超高給英語講師として働く者、旦那さんの駐在で来ている者、ワーキングホリデーで来ている者... 様々だった。中には、母が 70 年代に、韓国から欧米へいわゆる国際養子縁組に出されて育ったので、自分はハーフコリアンだという子もいた。




過去に行われていた韓国の海外養子縁組については沢山観た。後半にクラスメイトも登場している。



終始笑いが絶えず、雰囲気はいつも楽しかった。教科書に、ちょっとでも面白い写真が出てくると、絶対に誰かがからかい出す。先生も「韓国語での “アルバイト” という言葉の起源は...」など、面白いエピソードを多数披露してくれて、教室は毎回笑いに包まれていた。



ある時、「私は◯◯です」という定番文句、会話の練習中に、一人のクラスメイトがしんみりと、悲しい顔をした。遠慮がちに話し出す。


「私は、実は医者なんだけど、夫が大使館に勤めてるせいで、 4 年に一回、国を動かなければならない。赴任先の国で医師免許があるわけではないので、働けないし、現場から離れてもう数年経つ。友達は働かないなんて優雅でいいねと言うが、全然そんなことはなくて...」


と言うではないか。


これを聞いて、みんな絶句、クラスは共感の嵐...!同じく駐妻として日々微妙な気持ちと葛藤している私は『医師の彼女に比べたら、零細フリーランスの私の悩みなんか何でもない...!!この人は医者になるべく研鑽を積んだのに、今は外国にいるせいで働けない苦しみを味わっているなんて!!😭』とショックを受けた。落ち込みがちな自分の頬を殴ってやりたい。(言い過ぎ)



様々なドラマというか、どうして韓国にやって来たのか、ちょっとした縮図のようなものがぎっしり詰まっていた。皆とても真面目で、エリートだった。「実は医者なの」発言の後、「実は私も本当は弁護士なの。だけど韓国では...」や、「母国で Ph.D.  に取り組んでいたんだけど、もう行き詰まっちゃって、全部やめて、韓国にやって来たわ」という発言も続き、私はそんなクラスメイトを尊敬する気持ちでいっぱいだった。先生は優しい微笑みで私たちを見つめていた。



夏の間は通えなかったので、必然的に皆とは離れ離れになり、レベルを一つ落とすことになる... せっかく韓国で出来た友達だったので、それがイヤだった私は、必死に一人で勉強をして、一つ上のクラスのテストを受験、無事合格。しかし、実際の授業が始まる前の二日間は、改めて猛勉強。



それぐらい大好きだった韓国語学校だったというのに、今年で終わりにすると決めた訳は... 



①私もそろそろいい加減、少し仕事をして、稼がなければ、家計がやばい。(こんなに貧乏な駐在員一家がいるだろうか... 否いない😭)


どれぐらいやばいかって?今日の私のお昼ごはん、残ってだいぶ硬くなったパンに、インスタントのきのこスープを付けて食す、だからね。なめないでくれるか。


まったくゴッホもびっくりよ。こんな食事したの、パリで学生だった時以来だよ😂 ちなみにこれ以外の時は、大体何らかの麺を食べている。もちろん、家で。



②家計もやばいし、私のメンタルヘルスもやばい。



③家計もやばいし、私のメンタルヘルスもやばいし、このままではいつまでも私の経済的自由がない。→これはサステイナブルではない。予想以上にキツい。




…現場からは以上です。





そもそも「駐在員」というビジネスモデルが、このグローバル社会において機能していない — とっくに破綻していると思っている。駐妻は働けないなんて、基本的人権の剥奪じゃないか、とさえ思う。(駐在する国にもよりますが...)



私たちは甘かったのだ。日本人なんだから、韓国語はすぐにマスター出来るだろう。そうしたら仕事もきっと見つかるだろう。夫さえ、そう思っていたらしい。しかし現実は厳しかった — 韓国は厳しかった、と言うべきかもしれない。



(私のスキルが至らないというのは大前提にしても)そもそも「英語で勤務可」の求人は皆無だし、どの求人にも絶対 “ Business Korean” 、“Full Korean proficiency” と書いてある。基本的に、グローバルに働きたい人・非韓国人向けではないのだろう。



私は負けた。韓国に完敗した気持ちだった。韓国語にも完敗した。初級の下が終わって、こんなにも話せない言語があるなんて。


長年 K コンテンツを観てきただけあって、相変わらず聞き取りは出来る。だけど、気を抜くとすぐに簡単なハングルさえも読み間違える。返答は相変わらず出来ない。もどかしい。フラストレーションだけが溜まっていく。


学校で習ったフレーズさえも間違えたりして、言い直そうとすると、韓国の人は大体せっかちなので、もうこっちの話なんか聞いていないし😂、動詞と形容詞の活用にいたっては、語尾の種類が多過ぎて、しかもそのどれもが似ていて、まったく覚えられない。それに敬語表現が加わったら... 悪夢だ。



上記はあくまで、一般的な「ヘヨ体」と呼ばれる、失礼のない口語表現であって、これにかの有名な「イムニダ体」が別枠として存在している。君臨していると言うべきか。韓国語でのニュースやインタビュー映像なんかを見ると、皆決まって「イムニダ体」で話しているのに気付く。



実は私には、韓国語がマスター出来たら、やってみたい夢があった。(BTS に仕事で会う、ではなくて...)それは、ソウルの孤児院でボランティアをすることだった。残念ながら相変わらず韓国語が話せないので、役に立たないのはおろか、面接にさえ漕ぎ着けられないであろう。



今まで語学だけは得意で、楽しく勉強してきたというのに、韓国語には完敗。なんという屈辱。これがもしイタリア語だったら、もう少し親和性があったのだろうか... いや、夫にはいつも「アクセントの位置が違う!」と怒られているしな(笑)。


また、週に 2 回、合計 3 時間だけ学習するのでは、到底足りないのも分かっている。韓国語を立派にマスターした外国人の友達は、皆決まって、「あぁ、それじゃ全然足りないよ、もっとインテンシブに勉強しなきゃ」と言うではないか。



確かにね。英語だって、(私の場合は)小学校 5 年生の頃から高校卒業まで近所にあったイギリス系の塾に毎週通い、中学に入っても英語だけは楽しく勉強し、高校にいたっては半数の授業が英語という特殊な環境だったし、そのまま外国語大へ行ってしまった。


フランス語にいたっては、二十歳の頃、パリで週に 25 時間、これを10 ヶ月半、集中して勉強したっけ... 。週末も遊びに出かけず、部屋に篭って、ほぼ泣きながら必死に活用を覚えたなぁ。


そう言えばこの頃、私は、今でも 15 区にあるプロテスタント系の学生寮に住んでいて、隣の部屋には韓国から来た女性が住んでいた。劇団員で、演劇を勉強しに来たと言っていた。寮には彼女以外にも韓国人の女の子達が複数住んでいたので、夜に彼女の部屋で集まると、必然的に韓国語での会話が聞こえてくる。私は壁越しにそれを聞きながら、眠りにつくこともあった。



しかし。しかしなのだよ。自分でも諦めが悪いと思うが、英語にしたって、フランス語にしたって、私が今韓国に住んでる期間 = 一年と二ヶ月もその言語圏で暮らしていれば、普通は高校生でも、もう少し話せるようになっていると思うのだよ。少なくとも、今の私の韓国語会話レベル(ほぼ0☆)よりは....... 


注・私がアラフォーでもう脳がヤバいってことは十分考慮しても、です。



それなのに、韓国語の難しさと来たら...... 勉強自体はとても面白いのに、話せないので喜びもない。諦めるのは悲しい。普通だったらこんなことしたくない。真面目に毎週 6 ページもある宿題もこなして、中間テストがあれば満点目指して必死に勉強した。週に二回学校へ行って、大好きな先生と友達にも会って、外の世界もあるんだなと感じて、少しは人間らしい気持ちにもなって、暖かい気持ちで帰宅する。


なので、あくまで断腸の思いで決断したのだと、理解してもらえると嬉しいです。間違っても石を投げてこないでー😂



それで出来た時間に何を始めるかと言うと — 冷やし中華始めました。というのはもちろん冗談で、ついに 1 月から書道レッスンを再開します。Ta-da!





さて、書は私を助けてくれるだろうか?書が甘くないことは、今までの経験上、重々分かっているつもりだ。しかし今、韓国で私に出来るのはこれしかない...... 初心にかえって頑張ります。


ソウル市へのコンテンツ提供(原稿書き)の仕事も、なんと継続になりました。こちらも引き続きよろしくお願いします。


韓国語は、これからはマイペースに、趣味として계속(継続)するぞー❤️


 
 
 

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