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KOMIDASHI WO TSUKERO

ニュースや日頃考えていることなど

I will mostly address in Japanese or English on this page - apologies!

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  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • il y a 3 jours
  • 6 min de lecture

おフランスの学校は、私立か公立かにもよるけれど、大体 6 月の終わりか、7 月の第一週には終わって、長い長い夏休み、バカンスへと突入してしまう。一年のうちのでも、夏のバカンスが約二ヶ月あって、一番長いので、文字通り Grandes vacances(大きなバカンス)と呼ばれている。


バカンスに入る前、学校で子ども達による演劇の発表会があるのも恒例になってきた。去年は合唱だったのだけど、CE1(小学二年生)になった子のクラスは、今年はディズニーの「アラジン」だった。おフランスの担任の先生は、基本的には一緒に次の学年へ上がる、ということがなくて、毎年同じ学年を担当しているのだけど、去年は「美女と野獣」だったらしい。子の担任だった、まだ若い女性教師の趣味が完全に露呈している。



子はなんと、なぜか主役のアラジン役をもらってきた。厳密に言うと、まだ庶民のアラジンでなく、ジャスミンの気を惹きたいがあまり、王子様の振りをし始めるアラジンからである。


ということは、かの有名な “The Whole New World” のフランス語版 “Ce rêve bleu” を、ジャスミン役の子とデュエットするという大役まで果たさねばならなかった。これを聞いた時の私の率直な感想 — 子には到底言えない — は、「これはガチでヤバい」。



正直、 “The Whole New World” は、大人がカラオケで歌うにも難しい歌である。うちの子は、しょっちゅう飛び回り、体力だけは果てしなくあるので、運動に関しては心配していないのだが、音楽は... 音楽だけは... 超絶理系の夫(これまた超音痴)に似たのか、子の一番の才能ではないのだよ!!(※あくまでも、柔らかく表現しようとしています)


これを知った数週間前から続く、親の方の緊張感よ... 君は想像できるか。





前出の担任からは、本番の十日前に「できる範囲で、こういう衣装も各家庭で用意してくださいね」とさらりとメールが来て、私は家にあるもの+リボンなどを買って、作ろうと思っていたのに、夫が「舞台の衣装は大事だ!これは息子にとって大事な日になる!子の大事な日に、出資せずにいられるか!」などと声高に叫び、結局、クパン(韓国版Amazon)でアラビアンナイト調のコスチュームまで買った。


あざとい母としては、今年のハロウィンまで着れるように、少し大きめを購入。





当日、最前列に席を確保した私たちは、20 分近くに及んだ劇を、しかと見つめていた。


「やっぱりちゃんとした衣装買ってよかっただろ... 」と、隣で夫が得意げにしている。歌の出来は、衣装でカバーだ、とでも言いたそうである。子どもたちはみんな一生懸命で、とてもかわいい。なぜか同じような衣装を着たジャスミンプリンセスが複数人わらわらと出てきたのも、かわいかった。


しかし、私が一番驚いたのは、子どもたちの健気さではない。「フランスの子は、どうしてこんなにも音痴が多いのだろうか」であった......... 



いやね、今までも、うすうすは気づいていたよ。去年の合唱でも、『うっ...?!』となるシーンが多々あった。しかし今年は演劇、コメディーミュージカルである。歌はとても大事だ。セリフに気持ちがこもってないとか、我々オーディエンスの保護者の方でなく、舞台の前の隅の方で、必死に指示を出している担任の先生だけを見つめてセリフを読んでいるとか、そういったことは、すでにディーテールと化している。どうでもいい。...「音程」と「リズム」はどこへ行った?!w



去年亡くなった、大好きだった義父が常々、生前口にしていたのを思い出す。「フランスの教育は、国語と数学にだけ重点を置いているから... 体育や音楽などの芸術点は、各家庭任せになり過ぎている」と。私はその言葉を聞く度に、まだ子が小さかったこともあって、おフランスの学校とは縁遠かったので、ピンと来ていなかったのだが、今なら分かる。『パパ、あれはそういうことだったのね.....(涙)!!』と。



確かに、今までのおフランス生活でも、「音楽一家」というのはどこか別カテゴリーで存在しているというか、一目置かれている空気はあった。そういった家庭は両親ともコンセルヴァトワール出身だったり、はたまたコンセルヴァトワールで教えていたり、そうすると自然と子どもも、放課後や土曜日は、音楽中心の教育を受けている、というシーンに出くわしたことがあった。バレエなどのダンスも同じである。



平成の日本で育った私には、ほとんどの女子がピアノ教室か書道教室に通っているのが当たり前の光景だったので(そして自分もその一人だったのだが)、「放課後に音楽を習わせるのはちょっと特別な選択肢」というフランスの事情を、肌で感じるようになった。平成の日本は、ピアノブームだったのだろうか?もちろん、フランスでも、とりわけピアニストの家庭でなくても、ピアノを習わせている家族は一定数存在しているし、柔道も人気のお稽古事だ。上の姪っ子も、バレエを続けていて、叔母としてはとても嬉しい。



脳内で、義父の言葉を噛み締めていると、目の前のアラジンがどんどん展開していく。自分たちで引っ張り出して来た魔法のカーテン、借りてきたアラビア風のランプ、青い衣装に身を包んでジーニーに扮した息子の友達... めくるめくしかけに、後ろで妖精に扮した子どもが数人、左右に揺れては歌っている... やはり、大多数のトーンがずれている。



かつて、私の母は言った。「フランスってシャンソンの国でしょ。シャンソンもぼそぼそ喋るように歌うじゃない。その影響もあるんじゃない?」。確かにね。声楽と言えば、お隣のイタリアだし、そこには、抑揚やアクセントがはっきりしている言語も関係していそうだ。


ソウルで知り合った台湾人のママ友は、ロンドンで美大へ行き、デザイナーとして働いていたので、とても綺麗なイギリス英語を話すのだけど、「フランス語はアクセントがどこか分からない、どう読めばいいのか分からない」と言って、「フラットに、書いてあるまま読めばいいんだよ、イタリア語とは違うからね」と答えたら、納得してくれたのを思い出す。


それをまるで裏付けるかのように、ほとんどのフランス人にとって、英語のアクセント (accent tonique という) がどの位置にあるか判断する・覚えるのは、ちょっと “難しいこと” になっている。



どんなに音痴でも、子どもはかわいい。必死に先生を見つめて、喋り、踊っている。子どものかわいさが、音程が外れていることなど、かき消してくれるかのようだ。



いよいよ、肝心のシーンになった。 “The Whole New World” のフランス語版 “Ce rêve bleu” 。青い夢。ドキドキして、夫とステージを見つめると、やはり懸念した通り、子の声が圧倒的に小さくて、ほとんど聞こえない。この一ヶ月、あれだけ車の中でも “Ce rêve bleu” を頻繁に流し、一緒に歌い、練習して、家でも iPhone を見つめて練習し、いやがる子をよそに、母は勝手にジャスミン役を買って出て、ノリノリで歌い、隣で夫も「いい?音を外してもいいから、大きい声で歌うんだよ?はっきりとね!」と特訓したのに、完全に吹っ飛んでいる。


隣でジャスミン役の女の子は、まるで CD から飛び出してきたかのように、音程も確かに、堂々と歌い上げていた。声量もある。私は彼女が、一瞬 Disney チャンネルから飛び出してきたのかと思った。しかも、この子の両親は韓国系・日系のアメリカ人夫婦で、ソウルでも米軍基地の中に住んでいる。フランス語は、あくまで学校で覚えた言語なのだ。子どもって、すごい。



いろいろな涙を堪えて拍手を送ると、子どもたちは皆満足げな表情で、ステージ上に並んでいる。小さな花束を持って駆け寄る親もいたり、写真を撮るのに忙しい。今年の夏は、アラジンのアルバムを何回聞いただろうか... Apple Music にあってよかった。まったく劇団四季もびっくりの、夏の始まりであった。


 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 8 juin
  • 10 min de lecture

Dernière mise à jour : 9 juin


読んで字の如く。また台湾へ行ってきた。去年の秋に初めて訪れて以来、私があまりにも台湾のことが大好きになったので、夫や各方面に「台湾台湾台湾」と言いまくっていたら、うんざりしたのか、夫が「分かったよ... 春に家族で行こう」と同意してくれて、三人で出かけてきた。子にいたっては、「ママはどうしてそんなに台湾が好きなの!(どうしてまた僕は台湾へ行かねばならないのだろうか)」と文句でも言いたそうにしていたが、あいにく若干七才の少年にバカンスの決定権はない。



バレエの先生(韓国系カナダ人、元プロバレリーナ)に至っては、「え、また台湾に行くの?前も行ってなかった?マリはどうしてそんなに台湾が好きなの?韓国のこと好きじゃないでしょ。もうマリに優しくするのはやめよう」とまで言ってきて、ギリギリのジョーク過ぎて笑うしかなかった。その後のレッスンではみっちりと鍛えられて、早速、有言実行のようでもあった。



というわけで、今度は初夏の台北へ。前回と同じ中山地区の通りに、別のホテルを取った。


前回のホテルは、一週間も泊まったからだろうか、日本の自宅へ年賀状と、誕生日にはカードを送ってくれるという優しさで、それなのに、同じ通りにある別のホテルへしれっと浮気した私を許して欲しい。。。


カードは印刷、一斉送信のシステマチックなことは理解しているけれど、わざわざ日本まで送ってくれるなんて...。お礼だけでも告げたくて、韓国から何かお土産を持って挨拶だけでもしに入ろうかなと思ったけれど、さすがにヤバい奴に思われそうで、出来なかった。前を通る際は、心の中でそっとお辞儀をした。



初日から、早速故宮博物院へ。前回見られなかった「自叙帖」リベンジと、夫をぎゃふんと言わせるためである(?)。朝、同じ時間の観光バスに乗ったもんだから、案内スタッフのお姉さんも前回と同じ人で、その後行った迪化街の薬局でも、前回と同じ老店主が迎えてくれて、それを覚えてる私も私だと思うけれど、まるで勝手に、古い友人に再会したような気分になってくる。『みんな変わらず元気そうで、私嬉しい...!』と盛り上がる。



結論から言うと、またも「自叙帖」リベンジはならなかった。売店のおじさんに半泣きで質問すると、「あぁ、それは普段飾ってないよ!傷むからね、数年に一回だけ。ウェブサイトでチェックして」と言われる。そんな〜!!



白菜ちゃんもまたいない。出張に出ている。まったく私よりも頻繁に出張に出ているのではないか。けどかわいいから許す!


角煮ちゃんには再会できた。子も角煮ちゃんがお気に入りである。故宮博物院の展示品のレベルには、何も言わなくとも夫も理解し、納得したようで、「この美術館はレベチだ...!」と感動したようだった。なぜだか私が誇らしい。偉そうである。


蒋介石よ、あなたがやったことは正直色々だが、少なくともお宝に関しては清朝からいろいろ持ち出してくれてありがとうと言いたい。





ということで、「自叙帖」は今後おそらく三年か四年後には展示されるはずなので、また来なくてはならない。三度目の正直なるか。「自叙帖」は見られなかったにしても、それ以外の素晴らしい書は全部見た。舐め尽くすように見た。偶然、硯の展示もやっていた。「私が来ること知ってたの?!くぅ〜!」と腹が立つ程、眼福な展示であった。







気が付くと、故宮博物院だけで、80 枚もの写真を撮っていた。この時の企画展は、「神獣再現」というテーマで、ゆるかわというか、摩訶不思議というか、空想上の動物たちを描いたものや陶器をたくさん拝見した。子どもでも楽しめる内容だったので、子も大喜び。青銅器のコーナーでは、金文がたくさん。これは帰ってから、金文を書きたくなる。そうしかと胸に決めて、残りの展示も隈なく見た。



今回は夫も一緒だったので、前回は疲れた子に阻止された三階の展示フロアにも行くことが出来て、私大喜び。博物院を出た後は、真横にある素晴らしい庭園で、お茶味のアイスクリームもいただく。メンズは移動のタクシーの中で昼寝という名の爆睡をしていたが、私は外の景色を見るのに忙しい。いや、相変わらず看板などにある、素晴らしい字を見つけるのに忙しいと言うべきか。






まだ、台北(と近郊の淡水)しか行ったことがない者にとって、台湾の魅力を総論として語るのは、無資格か、恐れ多いことのような気がする。それでも、少なくともこの台北という街の魅力は、なぜだか全然メンテナンスされている風がない各ビルのさびれたファサードと、雨の日には至極歩きやすい構造になっている点だろう。


建物の二階以上が前に張り出していて、一階部分だけが奥まっている。その奥まった部分が屋根付きの歩道になっていて、雨の日も濡れずに歩くことが出来る。「騎樓」というらしい。


今回も何度か小雨に降られたが、この「騎樓」のおかげで、どんな天候でも街歩きは不思議と快適だ。初夏の強い日差しにもいい。夜になると、不快の極みであるあやつもやはし目にしたが、そこは台湾マジック。なぜか台湾にいるおかげで、気にならない。








それから今回の旅で、また一つ分かったことがある。それは... 台湾は、日本人が物足りる(もしくはそれ以上の)かわいい雑貨パラダイスであるということ。今回初めて、永康エリアへお散歩へ行ってみたのだが、そこで出会った LAI HAO というお店で、私は怒りを感じていた。置いてあるものすべて、カラフルでかわいい、、、!全部欲しくなる!けしからん、なんてかわいいんだ!という感じで、終始頭沸騰。





LAI HAO では、烏龍茶の香りという、うっとりする香水にも出逢ってしまった。P. Seven というブランドが作っているらしい。調べてみると、さすが、日本でも取り扱いがされている。LAI HAO では小サイズしか売っていなかったので、速攻教えてもらって正規店へ向かう。徒歩二分の距離だった。








最終日の日曜日には、元同僚で現地の友達 P と、P の恋人 B くんにも再会。B くんはクライマーで、自然の岩山をガチで登る他、ほぼ毎日ボルダリングジムへ行くという。


世界チャンピオンのバリスタがいるという高級カフェで待ち合わせした後、華山 1914 の裏にある中央藝文公園へ移動すると、B くんがうちの子とたっぷりと遊んでくれた。さすがの体力...!アラフォーで、なんかもういろいろ疲れ切っている親としては、感謝してもしきれない。



以下、今回初めて行けた場所リスト。




①常に飲んでいた大好き台湾 18 ビールの工場😇 


あいにく工場見学はお休みだったのだけど、工場の敷地内を奥の方へ進んでいくと、お土産物屋さん兼バーがあり、そこで破格で飲むことが出来る。


そしてここのバーが、絶妙にやる気があるようなないような、それはまるで在庫の薄いコンビニか倉庫にも似ているような... 台湾らしいゆるさを惜しむことなく発揮している(笑)。


『私にこのバーのプロデュースをさせて欲しい...!もっと売り上げ取れるはず!』と思ったのだけど、後日 P と B くんにこの話をすると、「政府がやっているからね、数字に困ってないの。やる気がなくて当然」と、微笑んで教えてくれたのであった。やっぱりねw






②台湾の伝統的な朝食レストラン「世界豆漿大王」



今回ようやくタイミングがあって、行くことが出来た!しかしホテルで軽く朝食を食べた後に行くという、少し無謀なチャレンジ。お店は、一人一品絶対注文制度なので注意。しかも、パンや飲み物などの軽いものは含まれないという厳しさであった。


ここは日本人に有名なようで、店内は欧米のバックパッカー系か、日本人だらけである。私はここで初めて「豆漿」を知ったのだけど、絶妙に甘いスープが美味しいー!ミルクティーと合わせて、旅行の疲れが取れるかのようである。


しかし私は台湾にいる間、あまりに幸せ・楽し過ぎて、風邪も引かず、体調も崩さず、常にハイテンションなので、子にうるさがられるというお決まりの流れであった。ちなみに子のメモによると、今回の旅行では、私は合計 72 回 ” J’adore Taiwan(台湾大好き)” と叫んだようである。一週間滞在して 72 回とは、大体一日に 10 回前後ということなので、まだ控えめでは...?



私の顔よ😂




その他、レストラン系では...


①偶然見つけた宝物みたいなレストラン「LEONE」。


ホールスタッフに、Japanese Breakfast のボーカル、ミシェルそっくりのお姉さんがいてびっくり。そのことで少し話しかける。夫には「やめなよ... 」と引かれるが、気にしない。


お姉さんは笑顔で、「台湾に来たなら台北だけでなく、南へ行かないとダメだよ!南が本当の台湾だよ」と教えてくれる。ちなみにミシェルの音楽も美しいが、著書 “Crying in H Mart” は最高だ。





②チャーハン好きのうちのメンズも認めた「心潮飯店|台北微風信義店 SINCHAO RICE SHOPPE」


こちらのお店も、料理の味はもちろん、目にするデザインすべてが素晴らしい。まったく台湾、素敵過ぎるよ...!あまりに写真撮りまくりで、携帯のメモリを振り切りそうである。





メンズを、101 タワーへ行かせた後、合流して、すぐ近くにある微風(Breeze)や、日本人にはふるき懐かしデパートのそごうまで、空中庭園という名で通路が出来ており、繋がっていた。地上レベルを歩かなくともたどり着ける、とても気持ちのいいシステムだった。前回はまったく気づかなかった。



台湾という大確幸(私が作りました、だって小さくないもの)に感謝します。





これは、ホテルからそう遠くない中安公園で子をちょっと遊ばせていた時に撮った写真なのだけど、この時、この公園で、一人の老紳士と出会った。正確には、老紳士は車椅子に座り、インドネシア系の女性に押されていた。


老紳士は、最近どの公園にもよく置いてある運動器具の、車輪のような、ハンドルのようなものを、底が少し白く、透けたような色をした優しい目で見つめると、非常にゆっくり、音にならないくらい、左右に動かしている。目の焦点はハンドルに合っているようで、その向こうを見つめているような、はたまた空か、過去を見つめているような、そんな眼差しだった。私がこの老紳士に圧倒されたのは、彼の 85 をも超えているような年齢だった。いや、90 近いのかもしれない。その風貌は、どことなく父方の祖父に似ていた。


台湾で出会う老紳士のような年代の方は、きっと日本語が第一言語だったであろう。彼もまた、時代に翻弄されただろうか。まったく日本は無茶なことをした、とまたここでも思う。一人、猛省する思いだ。少なくとも、彼の老後、また現在(いま)を取り巻く環境が、穏やかなものであることを願わずにいられなかった。





この半年の間に、予習というか復習として読んで勉強した本が「台湾の本音」。今回の旅の後、韓国へ戻ってからは、日本で注文しておいた数冊も読んでいる。今現在は、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ 40 「台湾紀行」に夢中だ。


世代的に... と言うと言い訳でしかないのは分かっているけれど、司馬遼太郎さんの本を読むのはこれが初めてで、彼の多大な文筆力とリサーチ力に平伏すような気分だ。「台湾紀行」には、当時の台湾総統である故李登輝氏との対談も収録されていて、とても豪華だ。そして李氏のような人こそが、本来政治家と呼ばれるべき人物で、器だよなぁと思ったりする。


台湾について読書するという、新しい趣味が出来て嬉しい。(なんせ、気がついたら無趣味の女になってたからな...!)




台湾は、かわいい。



せっかく台湾まで二時間半で着く場所に住んでいるのだから、願わくば 9 月の旧盆(チュソク)の休みの際に、今度は高雄経由で台南へ行ってみたいのだが、夏のバカンスの後では財布も体力も燃え尽きていて、難しそうだ。そうこうしていると 2027 年が近づいてくるが、予想が外れ、その恐ろしい食指が遠のくことを祈るばかりである。



最後に、前出の「台湾紀行」にある「魂魄(こんぱく)」という章が素晴らしいので紹介したい。




夕方、六歳の準ちゃんは、自宅の裏のガジュマルの樹にのぼった。

 枝葉の茂みが、ソファのようにやわらかい。

 いつもとちがって屋根の瓦の波が目の前にあり、べつな宇宙にきたみたいだった。本を読みはじめた。

 やがてお母さんが勝手口から出てきた。髪をひっつめ(ひっつめ、に傍点)にして、青っぽい和服を着ている。

「準ちゃん」

 と、樹の下で、彼女は遠くにむかって呼ばわった。が、当の準ちゃんは、頭の上の樹の梢にいる。

「ごはんよ、準ちゃん」

 お母さんが途方に暮れたまま、

「準ちゃんは、どこへ行っちゃったのかしら」

 と、つぶやく。当の準ちゃんは、笑いをこらえて樹の上にいる。


(「魂魄」『台湾紀行 街道をゆく 40』)




…  これは、台湾生まれの元新聞記者・田中準造氏の子ども時代で、彼の物語だ。話はこの幼少期の記憶から、田中氏が大人になってから、生まれ育った台南市新営の街を再び訪れ、とある人へ逢いに行くことから始まるのだけど、これがもう涙無しには読めない。


私はあまりに感動したので、ここからインスピレーションを得て、いつかきちんとした書の作品に昇華してみたい、と思っている。今年中に作るぞ!



台湾、ありがとう。また絶対行くからね。待っててくれよな❤️

 
 
 
  • Photo du rédacteur: Mari Okazaki
    Mari Okazaki
  • 10 avr.
  • 8 min de lecture

せっかく今しか暮らしていないのだから、日々の韓国生活についてもっと気楽に綴ることが出来たら... モチベーションも消えがちだし、書いていないとライティングのテクニックみたいなものも忘れがちになるので、もっと自由に!と思うのだが、韓国のことを書こうとするのは、至極難しい。


韓国でできた友人のことを傷つけたくないし、自分の国・日本のことも尊重したい、ちょっとした板挟みに遭うようだ。



(不定期ではあるが)ソウル市への原稿書きの仕事があったり、どこの国であっても、なるべくなら通り過ぎ去る者のようにではなく、しっかりと根を張って生活してみたいと思っているので、そんな自分の気持ちに応えるためにも、ネガティブなことは書き残したくない。


しかし、最近こんなことが続いたからだろうか。今日だけはちょっと例外的に、センシティブだけど一種の ”挑戦” として、書いてみたいと思う。


*気分を害された方がいたら申し訳ないです。個人的なフィードバックも大歓迎です。




気が付いたら 10 年以上、アジアから遠く離れたフランスで暮らしていたから、こちらでの日本への扱いに、時々びっくりすることがある。それは韓国では、私が経験した範囲では、日本という存在が現れる時、それは決まって「過去のコンテクストが多い」という点だ。


冬の間、近所のイタリア人家族の家で開かれたアートイベントへ出かけてきた。北朝鮮にいる画家たちが、どういう活動をしているのか追った人(イギリス人ジャーナリスト)がいて、その発表を聞くためだった。





プレゼンテーションの中でも、日本は過去の、「悪」の扱いだった。地理的に近く、何より侵略の歴史を介したために、日本は相変わらず悪の存在として話題に上がる。フランスでは、どんな過去の日本の話題でも、20 世紀の軍国主義の日本が話題に上がることは稀な上、北斎でも、フジタでも、決まって称賛を以って語られることがほとんどだったことに慣れ、疑問視さえしていなかった私は、韓国での扱いが未だに違うことを学び、驚いた。


歴史はとっくに風化しているだとか、過去のことはもう忘れようなどと、ご都合主義なことを言いたいわけではない。私は現在起こっていることも含め、侵略主義には反対だ。1935 年から 1945 年までの 10 年間、ここよりもっと北の街でたくましく暮らし、必死の思いで三人の子供を連れ、日本へ引き揚げた祖母が生前ぽつりと言ったように、「攻めて行った日本が悪い」と、まったく同意見を有しているからだ。



祖母のことも、私個人では誇りに思い、感謝し切れない程だが、韓国の人からしてみれば、「いきなりやってきて統べ始めた日本人が、戦争に負けて、勝手に帰って行った」くらいの出来事でしかないので、こちらでは、よっぽど仲良くなった人にしか話さないようにしている。


どれだけ韓国生活が辛くても、それは韓国のせいではなく、自分の努力不足で、「韓国のことをもっと理解したい・好きになりたい。韓国を憎みたくない」という気持ちでいる。(相変わらず言葉は最低限しか出来ないけどな...!)


言葉が出来ないことから来る、思うように話せない・簡単な質問さえできないストレス。時々漠然と感じる寂しさや虚無感。働きたいのに働けない現実。そのいろいろが重なる。(言い出すとキリがないのでやめます...😂)


そんな時、超絶理系の夫が、ある日突然 Netflix の「脱出おひとり島」にハマって、毎晩一緒に見たりして、「やっぱり韓国の一番いいところは、面白いところだよね」などと笑って、『あーやっぱり韓国も楽しいなぁ、もっと好きになってきたなぁ』なんて喜んでいたら、あいつはやって来る。



語られるのは、いつだって過去の日本。軍国主義の、昭和の日本。日本人だって忘れ去りたい過去の汚点。


あれ、数年前に、「韓国から日本への旅行者が過去最大!」、「韓国人の日本への好感度が過去最高」って嬉しいニュース、出てなかったっけ?一体どっちのデータが本当なのか、分からなくなってくる。日韓関係が今よりもっと緊迫していた — しかしそう遠くない —  「No Japan! 運動」時代に、「日中は反日デモ、でも夜になればアサヒビール」などという皮肉も生まれた。


こちらで出来た友人の一人は、もう 20 年近くソウルで暮らしている。一昔前は、レストランで日本語を話していると、隣の席からお皿が飛んできたと教えてくれた。彼女のインドネシア人の友人は、インドネシア人なのに、自分と一緒にいたせいで日本人に間違えられて、靴を投げられたらしい。


日帝時代から唯一残る建物の一つであるソウル市庁舎には、大きなガラスで出来た波の新建築が覆いかぶさっている。赴任してすぐの頃、近くで働く夫の同僚が教えてくれたそうだ。「俺たち、前の建物は嫌いで... 古いのは飲み込んでしまわなきゃ」。 もっともである。





その節は、調子に乗った日本が本当にすみませんでしたと代わりに謝りたいくらいなのだが、こんなに平和主義で低姿勢で生きようとする私にも、あいつはやって来る。しかも、それは全然予期していなかった街中で起こる。


日本人のママ友と電車に乗っていると、機嫌の悪そうな女性会社員に突然暴言を浴びせられた。私たち三人がうろうろ歩いているのが気に食わなかったらしい。韓国語の出来る友人によると、「"旅行するなら一人でしろ!"と言っていた、特に日本人だからという発言ではなかったけど...」 とのこと。


また別の日には、同じ日本人のママ友数人でランチをしていると、隣の席から感じるきつい視線に気づく。先日は、横断歩道で信号待ちをしていたら、友人の背後から、ものすごい目で睨みつけられた。彼女は私を力強く睨みつけると、そのうち群衆に紛れて去って行った。


あんな目を突然、初めて「当てられて」、私は困惑した。彼女は日本語を話す我々を見て、何を思い、「私の姿」に何を見たのだろうか。正直に言うと、2026 年のソウルで、まだあんな目に遭う可能性があるなんて、思ってもいなかった。彼女の家族は、日本のせいで辛い目に遭ったのかもしれない。ソウルの下町で日本語を話す私の中に、その憎悪を重ねたのかもしれない。





フランスでは経験したことがない視線だったので、こういうことに出くわすと、毎回ひどく混乱してしまう。それは、きっと私個人に当てられたのではなくて、日本語を話す者=悪というロジックだと理解しようとしているけれど、難しい。戦後 80 年以上が経過し、どこからか戻ってきたブーメランを突然がつんと額に浴びた気分。夫も決まって、「気にしないで。C’est pas contre toi. (君個人に対してじゃないでしょ)」と励ましてくれるけど、頭の理解と感情が一致しないのだ。



エンジニア学校を出た後、とあるアフリカの国で一年間働いていた夫は言った。


「アフリカでもあるかな、フランス人って知ったら、今でもイヤな顔されるかな?両親は 70 年代のアルジェリアの、しかも地方で 6 年も暮らしていたけど、同じような目に遭っただろうか。今度聞いてみよう」。


「それでもさ」と夫は続ける。


「どういう経緯であっても、侵略して行った国が悪いよ、そもそもそこに住んでた人がいて、国があって、行くべきじゃなかったんだから。時々アフリカに長く住んでるフランス人でも、『俺たちはインフラを整え、病院も作ってやった。生活はぐっとよくなった』って驕り出す人がいるけど、そういう見方は良くない」。


「それは私も分かってる。同意見で賛成よ。そういうネトウヨみたいな奴にはなりたくない。それなのに、私の主義や意見を知らず、攻撃してくるのは、どう理解したらいいわけ?これで一日イヤな思いをして、自分の時間をロスするのもイヤだし。」


「私を睨んできたおばさんは、きっとこれだけ韓国人に日本が旅行先として人気になっても、絶対に日本には行かないだろうし、きっと一生行くこともない。もしかしたらどこの国にも旅行しないような、狭い了見の人かもしれない。そういう人が世界にいるって知るだけでも悲しくなるの」。

私は言った。


一体どうしたらよかったのだろうか。暴言を浴びせてきた会社員は、スーツなのにパーカーを被り、足は素足という、おかしな風貌だったから、関わるべきではないだろう。友人も動揺していたが、「きっとあの車両に乗っていた人全員が、私たちの味方だと思いますよ」と言ってくれた。


横断歩道で睨んできた女性には、「私の祖母はね...!」と、反論した方がよかったのだろうか。いや、それこそ私が頭おかしい人に見られるしな。ますます正解が分からなくなる。どれだけ理不尽でも、「耐える、そして忘れる」しかないのだろうか。


自分の国が犯した過去の過ちを、全然関係のない私個人が現代での清算を求められているような、誤算だった。韓国の深層的な部分は、いつまで過去を生き続けるのだろうか。どう受け止めればいいのだろうか。



年始から立て続けにこういうことが起きると、過去の日本の振る舞いや、日本が今も悪であり続けるのは、私にも一責任があるような気がしてくる。個と国家(全体)を混同したくないと日々思っている。しかし現実には、これを混同して、同じレンズで見る人々がいる。


同じ理論で言えば、私が遭遇したこうした人々は、今の韓国社会の一部分でしかなく、決して全体を示すものではないと、揺れる自分に言い聞かせなければならないだろう。




ソウル北部にある安国駅の構内を歩くと緊張する。休暇中の若い軍人の姿や、両側に、これでもかと旗が多くかかる大通りを通ると、ここは韓国なのだと思い知らされる。タクシーの中や、墓地の中など、日本語で話すのを控える時もある。


と同時に、ソウルでは、初対面で「僕は東京が大好きで、ハイボール作りなら任せて!」と笑顔で言ってくれる人や、「いわき市に一週間ボランティアへ行ったよ」と教えてくれる、あたたかい人々に出逢ったことも事実である。



私は、何も知らなかったのだ。親日家の国でぬくぬくと温水を与えられて育ち、生まれ育った東アジアでどう見られるかなんて、深く考えたことがなかった。



私が AI だったら、80 年後にやって来たブーメランを、いくらでも受け止めてあげたい、しかし実際には不可能だ。私は感情のある、生身の人間なのだから。


ちょっと厳しい、ソウルでの二回目の春だ。

 
 
 

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