- Mari Okazaki

- 10 avr.
- 8 min de lecture

せっかく今しか暮らしていないのだから、日々の韓国生活についてもっと気楽に綴ることが出来たら... モチベーションも消えがちだし、書いていないとライティングのテクニックみたいなものも忘れがちになるので、もっと自由に!と思うのだが、韓国のことを書こうとするのは、至極難しい。
韓国でできた友人のことを傷つけたくないし、自分の国・日本のことも尊重したい、ちょっとした板挟みに遭うようだ。
(不定期ではあるが)ソウル市への原稿書きの仕事があったり、どこの国であっても、なるべくなら通り過ぎ去る者のようにではなく、しっかりと根を張って生活してみたいと思っているので、そんな自分の気持ちに応えるためにも、ネガティブなことは書き残したくない。
しかし、最近こんなことが続いたからだろうか。今日だけはちょっと例外的に、センシティブだけど一種の ”挑戦” として、書いてみたいと思う。
*気分を害された方がいたら申し訳ないです。個人的なフィードバックも大歓迎です。
気が付いたら 10 年以上、アジアから遠く離れたフランスで暮らしていたから、こちらでの日本への扱いに、時々びっくりすることがある。それは韓国では、私が経験した範囲では、日本という存在が現れる時、それは決まって「過去のコンテクストが多い」という点だ。
冬の間、近所のイタリア人家族の家で開かれたアートイベントへ出かけてきた。北朝鮮にいる画家たちが、どういう活動をしているのか追った人(イギリス人ジャーナリスト)がいて、その発表を聞くためだった。
プレゼンテーションの中でも、日本は過去の、「悪」の扱いだった。地理的に近く、何より侵略の歴史を介したために、日本は相変わらず悪の存在として話題に上がる。フランスでは、どんな過去の日本の話題でも、20 世紀の軍国主義の日本が話題に上がることは稀な上、北斎でも、フジタでも、決まって称賛を以って語られることがほとんどだったことに慣れ、疑問視さえしていなかった私は、韓国での扱いが未だに違うことを学び、驚いた。
歴史はとっくに風化しているだとか、過去のことはもう忘れようなどと、ご都合主義なことを言いたいわけではない。私は現在起こっていることも含め、侵略主義には反対だ。1935 年から 1945 年までの 10 年間、ここよりもっと北の街でたくましく暮らし、必死の思いで三人の子供を連れ、日本へ引き揚げた祖母が生前ぽつりと言ったように、「攻めて行った日本が悪い」と、まったく同意見を有しているからだ。
祖母のことも、私個人では誇りに思い、感謝し切れない程だが、韓国の人からしてみれば、「いきなりやってきて統べ始めた日本人が、戦争に負けて、勝手に帰って行った」くらいの出来事でしかないので、こちらでは、よっぽど仲良くなった人にしか話さないようにしている。
どれだけ韓国生活が辛くても、それは韓国のせいではなく、自分の努力不足で、「韓国のことをもっと理解したい・好きになりたい。韓国を憎みたくない」という気持ちでいる。(相変わらず言葉は最低限しか出来ないけどな...!)
言葉が出来ないことから来る、思うように話せない・簡単な質問さえできないストレス。時々漠然と感じる寂しさや虚無感。働きたいのに働けない現実。そのいろいろが重なる。(言い出すとキリがないのでやめます...😂)
そんな時、超絶理系の夫が、ある日突然 Netflix の「脱出おひとり島」にハマって、毎晩一緒に見たりして、「やっぱり韓国の一番いいところは、面白いところだよね」などと笑って、『あーやっぱり韓国も楽しいなぁ、もっと好きになってきたなぁ』なんて喜んでいたら、あいつはやって来る。
語られるのは、いつだって過去の日本。軍国主義の、昭和の日本。日本人だって忘れ去りたい過去の汚点。
あれ、数年前に、「韓国から日本への旅行者が過去最大!」、「韓国人の日本への好感度が過去最高」って嬉しいニュース、出てなかったっけ?一体どっちのデータが本当なのか、分からなくなってくる。日韓関係が今よりもっと緊迫していた — しかしそう遠くない — 「No Japan! 運動」時代に、「日中は反日デモ、でも夜になればアサヒビール」などという皮肉も生まれた。
こちらで出来た友人の一人は、もう 20 年近くソウルで暮らしている。一昔前は、レストランで日本語を話していると、隣の席からお皿が飛んできたと教えてくれた。彼女のインドネシア人の友人は、インドネシア人なのに、自分と一緒にいたせいで日本人に間違えられて、靴を投げられたらしい。
日帝時代から唯一残る建物の一つであるソウル市庁舎には、大きなガラスで出来た波の新建築が覆いかぶさっている。赴任してすぐの頃、近くで働く夫の同僚が教えてくれたそうだ。「俺たち、前の建物は嫌いで... 古いのは飲み込んでしまわなきゃ」。 もっともである。

その節は、調子に乗った日本が本当にすみませんでしたと代わりに謝りたいくらいなのだが、こんなに平和主義で低姿勢で生きようとする私にも、あいつはやって来る。しかも、それは全然予期していなかった街中で起こる。
日本人のママ友と電車に乗っていると、機嫌の悪そうな女性会社員に突然暴言を浴びせられた。私たち三人がうろうろ歩いているのが気に食わなかったらしい。韓国語の出来る友人によると、「"旅行するなら一人でしろ!"と言っていた、特に日本人だからという発言ではなかったけど...」 とのこと。
また別の日には、同じ日本人のママ友数人でランチをしていると、隣の席から感じるきつい視線に気づく。先日は、横断歩道で信号待ちをしていたら、友人の背後から、ものすごい目で睨みつけられた。彼女は私を力強く睨みつけると、そのうち群衆に紛れて去って行った。
あんな目を突然、初めて「当てられて」、私は困惑した。彼女は日本語を話す我々を見て、何を思い、「私の姿」に何を見たのだろうか。正直に言うと、2026 年のソウルで、まだあんな目に遭う可能性があるなんて、思ってもいなかった。彼女の家族は、日本のせいで辛い目に遭ったのかもしれない。ソウルの下町で日本語を話す私の中に、その憎悪を重ねたのかもしれない。

フランスでは経験したことがない視線だったので、こういうことに出くわすと、毎回ひどく混乱してしまう。それは、きっと私個人に当てられたのではなくて、日本語を話す者=悪というロジックだと理解しようとしているけれど、難しい。戦後 80 年以上が経過し、どこからか戻ってきたブーメランを突然がつんと額に浴びた気分。夫も決まって、「気にしないで。C’est pas contre toi. (君個人に対してじゃないでしょ)」と励ましてくれるけど、頭の理解と感情が一致しないのだ。
エンジニア学校を出た後、とあるアフリカの国で一年間働いていた夫は言った。
「アフリカでもあるかな、フランス人って知ったら、今でもイヤな顔されるかな?両親は 70 年代のアルジェリアの、しかも地方で 6 年も暮らしていたけど、同じような目に遭っただろうか。今度聞いてみよう」。
「それでもさ」と夫は続ける。
「どういう経緯であっても、侵略して行った国が悪いよ、そもそもそこに住んでた人がいて、国があって、行くべきじゃなかったんだから。時々アフリカに長く住んでるフランス人でも、『俺たちはインフラを整え、病院も作ってやった。生活はぐっとよくなった』って驕り出す人がいるけど、そういう見方は良くない」。
「それは私も分かってる。同意見で賛成よ。そういうネトウヨみたいな奴にはなりたくない。それなのに、私の主義や意見を知らず、攻撃してくるのは、どう理解したらいいわけ?これで一日イヤな思いをして、自分の時間をロスするのもイヤだし。」
「私を睨んできたおばさんは、きっとこれだけ韓国人に日本が旅行先として人気になっても、絶対に日本には行かないだろうし、きっと一生行くこともない。もしかしたらどこの国にも旅行しないような、狭い了見の人かもしれない。そういう人が世界にいるって知るだけでも悲しくなるの」。
私は言った。
一体どうしたらよかったのだろうか。暴言を浴びせてきた会社員は、スーツなのにパーカーを被り、足は素足という、おかしな風貌だったから、関わるべきではないだろう。友人も動揺していたが、「きっとあの車両に乗っていた人全員が、私たちの味方だと思いますよ」と言ってくれた。
横断歩道で睨んできた女性には、「私の祖母はね...!」と、反論した方がよかったのだろうか。いや、それこそ私が頭おかしい人に見られるしな。ますます正解が分からなくなる。どれだけ理不尽でも、「耐える、そして忘れる」しかないのだろうか。
自分の国が犯した過去の過ちを、全然関係のない私個人が現代での清算を求められているような、誤算だった。韓国の深層的な部分は、いつまで過去を生き続けるのだろうか。どう受け止めればいいのだろうか。
年始から立て続けにこういうことが起きると、過去の日本の振る舞いや、日本が今も悪であり続けるのは、私にも一責任があるような気がしてくる。個と国家(全体)を混同したくないと日々思っている。しかし現実には、これを混同して、同じレンズで見る人々がいる。
同じ理論で言えば、私が遭遇したこうした人々は、今の韓国社会の一部分でしかなく、決して全体を示すものではないと、揺れる自分に言い聞かせなければならないだろう。
ソウル北部にある安国駅の構内を歩くと緊張する。休暇中の若い軍人の姿や、両側に、これでもかと旗が多くかかる大通りを通ると、ここは韓国なのだと思い知らされる。タクシーの中や、墓地の中など、日本語で話すのを控える時もある。
と同時に、ソウルでは、初対面で「僕は東京が大好きで、ハイボール作りなら任せて!」と笑顔で言ってくれる人や、「いわき市に一週間ボランティアへ行ったよ」と教えてくれる、あたたかい人々に出逢ったことも事実である。
私は、何も知らなかったのだ。親日家の国でぬくぬくと温水を与えられて育ち、生まれ育った東アジアでどう見られるかなんて、深く考えたことがなかった。
私が AI だったら、80 年後にやって来たブーメランを、いくらでも受け止めてあげたい、しかし実際には不可能だ。私は感情のある、生身の人間なのだから。
ちょっと厳しい、ソウルでの二回目の春だ。








