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キアラが死んだ。正確には死んでいた。暴力的で、直接的過ぎる表現で申し訳ない。二年前のある日、そんなニュースが飛び込んできた。
2024 年夏、韓国への引っ越しが濃厚になっていたが、まだフランスで暮らしていた頃のこと。ある日の夕方、いつも通り幼稚園に子を迎えに行って、一緒に帰宅すると、共通の女友達からインスタの DM が来ている。「ねぇマリ、知ってた...?」
一体何のことだと思って、慌てて見ると、リンク先にはキアラの旦那さんの投稿があった。
「キアラは二年間の闘病生活の後、7 月 XX 日、安らかに旅立ちました」
私は目を疑った。咄嗟に涙が溢れ、崩れ落ち、言葉を失うとはこういうことかと思った。
キアラとは、元々共通の友達から紹介してもらって知り合った。出会う前からも、なんとなくいつも話に聞いていた。私個人で日本からいただいたとある大型の仕事に、一緒に組んでくれるフォトグラファーが必要になり、探していると、友達が「それなら絶対キアラよ!」と紹介してくれたのだった。
マレ地区の近くにあるカフェで初めて顔合わせすることにして、私はドキドキしていた。初めて私個人で受け持った大口の仕事に、最適のフォトグラファーを見つけて、「いいもの」を納めなくてはならない...。出会ってみると、年も近かった私たちはすぐに意気投合した。
それから数年に渡り一緒に仕事をした。プロデューサーとしてまだ駆け出しの私と違って、キアラはとっくにプロだった。それも一流のプロ。ローマ出身で、パリにはもう 15 年近く住み、その間、名だたるメディアやブランド、ハリウッドのセレブにまで至って撮影していた。
キアラは私が依頼した仕事をとても喜んでくれたけど、キアラから見たら、私は本当に ”赤ちゃん” に見えたと思う。至らない点もたくさんあったはずなのに、怒ることなく、そっと教えるように、そして時には、クイーンのような素振りで自然に振る舞う。
あれはまだコロナ期間中、私がエッフェル塔の見えるホテルに何度も連絡し、苦労してやっと日程を調整したかと思えば、「月曜日はまだ女友達とサンマロにいるから撮影できないわ」と言ったり、「パタフィックス(撮影に使う小道具)を持ってないなんて!」とアシスタントを叱ったりと、キアラは私たちの女王様だった。
それでも、さらりと息をのむほど美しい写真を撮るキアラだから、なぜか許される空気があった。キアラはこうでなくちゃ、という感じもあった。私も他の子たちも、そんなキアラが大好きだった。
ロブに切った栗色の髪はゆるくカールしてなびき、ヴィンテージっぽい Prada の黒いサングラスをかけて微笑むと、足元は大抵カラフルな Nike のスニーカーで、真っ赤だったり、ショッキングピンク色の口紅が最高に似合っている。センスは抜群で、撮影用にとある高級カフェで頼んだカプチーノを見て「泡が綺麗じゃない」と言い放つ感性に痺れた。
私はキアラと一緒に働けることが嬉しくて嬉しくて、かっこいい彼女に猛烈に憧れたし、私もショッキングピンクが効いたスニーカーを買ったりと、こっそりキアラの真似をするくらいだった。ファン心丸出しで、今思うと情けない。
カリスマ性があるというか、クラス感があるというか、才能のみならず、人柄でも魅力が溢れる人だった。ある年の 9 月、キアラの 40 歳の誕生日パーティーに呼ばれた私は、19 区、ビュットショーモン公園にあるレストランの前に立っていた。パーティーには 50 人近くが集まった。私は一人で参加したので、前に一度会ったことのある子と喋ったりして楽しく過ごした。さすがクリエイティブカップルのパーティーで、片隅にはレトロなカメラで撮影するコーナーが設けてあった。
コロナが収束すると、日本からも、フランスからも、私のプロジェクトはすべて波が引くように終了してしまった。突然やって来た終わりは残酷だった。フリーランスは 5 年持たないという都市伝説は本当なのか... と落胆した。
キアラとは、別のプロダクトでも、また絶対一緒に組みたいね、出来たらパリで、二人でプロダクションを立ち上げよう。そんな話までしていたのに、このところ、なぜか疎遠になっていた。
私が単発で受けていた仕事で撮影に持ち込めないか、「オーガニック製品はどう?」、「アクセサリーは?」といろいろ WhatsApp で持ちかけても、キアラはいつも「お誘いしてくれてありがとう。けどイタリアの両親の具合が悪くて、行ったり来たりしてるし、私のことは当分、当てにしないで欲しい」とだけ言うのだった。
私はきっと、私が日本の仕事を失ってしまったから、キアラの気に障ったのかなとばかり思っていた。あの夏の夕方、真実を知るまでは。
DM をくれた友人に急いで電話すると、彼女も泣きながら同じようなことを口にする。
「私もまったく一緒よ... ここ数年、なぜか疎遠になっちゃって... 全然会ってなかったの。一度とある人をキアラに紹介してもらったんだけど、私には合わなかったし、詐欺師っぽい感じもあったから、『キアラ、あの人は危ないよ!止めた方がいい』って言ったのね、きっとそれで傷つけちゃって、私のことが嫌になって、疎遠になったんだと思ってて... まさかガンだったなんて」。
疎遠になったのも、ある時を境にひどく痩せたのも、髪の毛を突然ショートカットにしていたのも、全部ガンのせいだったのだ。あの明るくて美しく、才能に溢れ、ゴージャスなキアラは、まだたった 42 歳だったのに。病魔は私たちのキアラを奪って行った。以来、私はさらにガンが憎い。
祖父母や、年の離れた親戚などを亡くすのとは違って、同年代のキアラがこの世からいなくなってしまったと理解するのは容易なことではなかった。どれだけ戦っても勝てない病魔がいて、「健康が一番大事」、「健康はお金では買えない」など、陳腐だけどまぎれもない事実なのだと思い知らされるかのようだった。
さらに酷いことに、キアラにはまだ小学校高学年の娘が二人いた。葬儀に参加した友人は、ペール=ラシェーズ墓地の会場では、最期のビデオメッセージが流れたと教えてくれた。

2018 年秋、初めて一緒に仕事した日。
それから少し経って、私はブルターニュ地方のとある街にある合気道教室から、掛け軸を数本書いてくれないかと依頼を受けた。書く言葉は決まっていて、数パターンあり、掛け軸はこちらで日本から注文しますと言ってくれた。
依頼してくれた男性はフランス人合気道の先生で、年に 1 回茨城県へ行っては研修を受けているという人で、茨城で受け取った掛け軸 12 本が入った段ボールを、自分の手でフランスへ持って帰り、パリ郊外に住む私の自宅まで郵送してくれるという流れだった。
送られてきた掛け軸を受け取り、「合気道」とか「一期一会」という言葉をどう書こうかと、空(くう)を眺めていたら、キアラのことが頭をちらつく。
キアラに出会えて、あんなにも恵まれた、楽しい仕事を受けさせてもらえたのは、まさに「一期一会」だったのだ...。今までも何度も軸に書いてと頼まれたこの言葉だったが、私はもしかして、初めてこの時この言葉の意味と、深さを理解できたような気がする。もう二度と戻らない、魔法のような時間。
いざ、どういう書体で書こうか決まると、私は床に大判の下敷きを何枚も敷いて、準備に取り掛かった。墨もたっぷりと擦っていないといけない。

きっと、キアラだってもっと撮りたいものがあって、作りたいものがあったはずだ。美しいものが好きだった美しい彼女のことだから、志半ばで命を奪われるなんて不幸があっていいはずがなかった。正直に白状すると、私はこの頃、書への情熱が少し行方不明になっていて、しかし頼まれた仕事だし、落とすわけにいかないから、なんとかまた書に向き合おうと、もがいている時期だった。
もっと作っていたかったはずの人がもう作ることができなくなり、作れと言われている自分のやる気がないだなんて、クリエイターとして許されるはずがない。私はキアラの分まで、心身込めて作ろうと決めた。目の前の掛け軸はちょうど 12 本、一本たりとも失敗するわけにはいかない。
とは言え、私は柔道・剣道はおろか、合気道のことも何も知らないので、インスピレーションを受けるためにも、YouTube で合気道のビデオをいくつか見てみた。合気道があんな風にくるくる回って、風か、もしくは踊りのように優雅で、なおかつ相手をねじ伏せる強いものだなんて、まったく知らなかった。
白い着物の袖や黒い袴の裾が軽やかに揺れてついて回る... この様子を、字にも落としたい。出来た掛け軸を買ってくれるのは、きっと教室の生徒さんや、日本や武術ファンのフランス人に違いないけど、何て書いてあるのか分からなくとも、自然と「合気道」だと伝わるような... そんな字が書きたい。
いくつかの字体を試したり、いろいろ組み合わせたりして、一番しっくりしたものが出来上がると、私は一気に 12 本を書き上げた。思わず出た涙と汗を拭う。その時決めた。私はこれからも、キアラの分まで作り続けると。
この時期、よくこのピアノ曲を何度も繰り返し聴いていた。初めて年の近い友人を亡くしたせいで、新しい辛さを知ったし、明るいポップやロックなどが不適切なようで、しばらく聴けなくなってしまった。ピアノの音色は優しくて、そっと癒してくれるような反面、高いトーンを聞くとキアラが恋しくて心がきゅうとなる。
相変わらず、キアラを奪った病への憎悪もあった。もう何をしてもキアラは戻ってこない。しかも、(故人を責めるつもりではないが)何も言わずにこの世界からいなくなってしまった。仕事があってもなくても、もっと会って、もっと話したいことがあったのに。せめて病気なんだと話してくれていたら...
私はいつも格好悪く、憧れのキアラに追いつけ追い越せと焦っていて、きっとみっともなかったに違いないのに。どうして...
私がそんなすさんだ気持ちでいても、「いいのよ、ma belle」と言うイタリア語訛りのキアラの声がまるでどこかから聞こえてくるようだった。
今年私は 42 歳になった。キアラとは 4 歳差だったらしい。幸いにも一応健康で、ある日いきなり人生が終了させられるかもなんて想像ができない。去年は、大好きだった義父 R が亡くなった。クリスマスのあと急に具合が悪くなって、半年間、緊急入院や自宅療養を繰り返していたら、最終的には「こんな風には生きたくない」と本人の希望を叶える形になった。
R はいつも知的で優しく、目立つことが嫌いな性格で、いきなり現れた私をよくもこんなに信用し、愛をもって接してくれたなと感謝に堪えない。生粋のシャイな人なのか、とても遠慮がちな人だったけど、家に行くと奥の方から今でもひょっこりと笑顔で迎えに出てきてくれるのではないか、心だけは永遠に期待してしまう。テーブルにはいつも義父が座っていた場所が相変わらず残されている。けれど、肝心の姿は見えない。
控えめな人らしく、まるで何の跡も残さないようにひっそりと居なくなってしまった。そういう瞬間に、思い知らされる。もう彼はここにはいない。けれど、彼と過ごした記憶、微笑み、声、言葉は、私たちの中に残り続けると。
ぐっと涙を飲み込む。私が泣くと日頃から感情的なママ(義母、ちなみにイタリア生まれ)はもっとドラマチックに泣き始めてしまうので。
無残なほど、命は有限だ。そしてそれは普段意識することがない。
晴れた日の空の、雲を見かけると、きっとあの雲の向こう側に、キアラも R も、二人ともいるのかなと想像したりする。今すぐに会うことは叶わないけど、私はそれまで自分の人生をしっかりと生きると約束しよう — きっといつかまた会えると信じて。














