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  • Photo du rédacteurMari Okazaki

与えろ

ふと、このツイートを目にして、この言葉を知った。



《一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである》

 三浦綾子「続・氷点」より



毎年、無残にも増えていく年齢のせいなのか、いや、子を産んだあたりからなのか、私は薄々気づいていた。『これで人生でしなければならないことは、大体したのではないか...』。何というか、妊娠・出産があまりにも巨大イベント過ぎて、燃え尽きた。燃えかすだった。単純に、制作やアウトプットに思うように時間を取っていない、自分が悪いだけかもしれない。けれど、目の前で泣き、成長していく赤ん坊は、間違いなく新しい、次世代だった。「はい、これで自分の人生は終わり、これからは裏方(母)に徹して。自分の時間は終わり〜」と言われているような気さえした。誰もそんなことは言っていないのに。



想像していた以上に子育てが壮絶で、子は 3 才近くなるまで夜にまとめて寝ることはなかったし、これが俗に言う、育てにくい子なのかどうかは、分からない。あくまで、彼の個性だと思うし。自分の体力の無さ、そしてもしや、時間の使い方が下手なのだろうか、今の時代のスピードでは次々に生み出されて消費され、消えていく... 日々の様々な物事、ニュース、トレンドを感じ、吸収し、勉強する暇もなく、あっという間にこの 3 年半が過ぎていったような気がする。人生の中で、ここだけ少し情報量が少ないというか、外の社会から少し遮断されている感じ。まぁ、子育て「世代」と言うしなぁ。



友人のアーティストを見渡してみれば、みんな個展をやったり、グループ展をやったり、熱心に作り、売ったり、制作・プレゼンテーションに余念がない。私はいつになったら、したいしたいといっている個展をするのだろう。そして一体、いつになったらその個展とやらで発表する作品たちを作るのだろう。どうやって時間を捻出するのだろう。少しでも寝たいし、片付けなければ家の中はどんどんカオスと化すし、誰も書だけでは食べていないし、働かなければ生きていけない。仕事も好きだ。



私は焦っていた。自分は何も生み出していないのではないかと。



そんなに難しく考えなくても、もっと気楽な気持ちで普段から作り、発表する場を持てばいいのかもしれない。いつか『ここだ!』と感じるギャラリーに出会えるだろうとか、「個展」という言葉の重みに緊張するのではなくて、もっと「はい、そろそろ溜まってきたので皆さんどうぞ見てください」ぐらいの気楽な気持ちで開けばいいのかもしれない。本気になれば、パリには一週間単位で借りられる 5 ㎡のギャラリーだってあるのに。



そんな自分にイライラしながら、時間だけは容赦ないのでどんどん過ぎ去っていく。そして目の前の子もどんどん育っていく。これは「生」で「エネルギー」だ。自分に足りないもの。人間は、ルーティーンだけをこなせばなんとか生きていけるけど、それでは「カラー」がない。「感情」がない。



という感じで、ここ数年、時々だけど、鬱憤とした気持ちを感じながら過ごしていた。もちろん、私も夫も絶対に子どもが欲しかったので、子を授かった喜びは素晴らしく、2018 年の 6 月 8 日は人生で最も素晴らしい一日だったし、子のことが好きで好きでたまらない。むちゃくちゃ可愛い。いると大変だけど、いないと寂しいので、平日の日中は 20 分間、写真やらビデオを眺めている。


なのに、どこかで何となく、「子どもを産んだらあなたは終わり、はい、選手交代。時代のターンオーバー」という聞こえない声が聞こえてくる。「自分のことばかり考えて、お前は最低の母親だ」とも言われているような気がする。単に脳がそう思いたがっているだけかもしれない。正解は分からない。女性は子を産むマシーンではないのに、実際には様々な制約を乗り越えなければ妊娠も出産もありえないから、自然は酷である。



こういうことを時折思っていたら、先の言葉に出会った。私の焦りは、自分が集めたいものへの焦り、自分への欲だ。どれだけ集め、作り、発表し、時に辛辣な目にも遭い、批評も甘んじて受け入れ、糧にしようとも、"一生を終えてのちに残るのは、与えたもの" だけ...



この言葉に癒され、安心もした。そうか、「与える」ことなら得意だ。私は教えることも好きだし、自分が与えられる・シェアできるものがあれば、どんどん循環したい。そうか、「集める」だけでなく、「与える」ことで次の世代へ自分の肉を、血を残していけるのか。深いところで納得がいった。



思い返せば、子につける名前を考えていた頃。フランス語でも発音できて、日本語でも自然なもの、R や H は除いて... など、いろいろな制約がある中、夫が見つけた、子の名前。


もともとは、ヘブライ語で「神が赦すもの・神が感謝するもの」という意味がある、かわいい子の名前。私の父のリクエストもあって、夫の苗字の後に日本の名字も付けたので、バランス的に、ファーストネームを日本語でも発音しやすい、フランスのものにしないといけなくなった。その時思ったのだ。いつか私がいなくなって、子の子、またその子の顔立ちに日本の、アジアのかけらが微塵も感じられなくなっても、「オカザキ」という、フランスではいかにも日本的な子音溢れる名前が残っていれば、誰かがきっと、「昔、日本から来たちょっとクレイジーな女の人がいてね、その人がひいおばあちゃんなんだって....」。そんな風に、いつか遠い誰かが、私のことを思い出してくれたら... 嬉しいなと思ったのだ。私という存在、肉体が消えても、言葉は消えない。名前として残ってくれる。そんな願いを込めた。これも、「与える」のひとつなのではないか。




《一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである》



いい言葉は書きたい。書いて残したい。これはきちんと作品にしなければ。



与えろ。集めるのではなく。この言葉のおかげで、これからは少し、肩の力を抜いて生きていけるかもしれない。







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