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KOMIDASHI WO TSUKERO

このページではニュースや私 Mari Okazaki が日頃考えていることをお伝えします。

I will mostly address in Japanese or English on this page - apologies!

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今年はもうちょっとアウトプットを頑張りたいと思っているので、もう少しブログを書くようにしてみよう。せっかくここのページも作ったし。出来れば毎週一回は何か投稿できれば!と思っているのだけど、忙しさにかまけて、つい置き去りになっている... 今日これで宣言してしまったので、守れるように頑張ります。



ということで、タイトル通り、常々考えていることがあるのだけど、時々はっとする絵に出会うと、その瞬間、文字という窮屈さに居たたまれなくなる。絵は自由で、幸い今の時代では何を描いてもよく、字という意味を含んだ記号に、当てはめることもない... かたや文字は、形は決まっていて、デフォルメするとしても基本は崩さないだとか、「あらかじめ決まったバランス」というものがある。



だから、バランスの悪く書かれた文字を見ると「?」と頭を傾げてしまうし、モヤモヤする。ここはここまでを占めるべき、という、空間でのルールがある。



相対するようだけれど、文字にだっていくらでも想いを込めることはできるし、ぱっと見ただけで意味が見て取れる、こんなにミニマルで豊かな表現は、ちょっと他にないだろう。無機質なアルファベットにはない魅力が、漢字にはある。



(1月に新国立の展示で見た、これは好きだった。文字通り、新しい書だと思った。)



けれど、それと同時に、浮かび上がる感情、書き起こしたいとう気持ち... それを文字という枠にはめなければならない時、少し歯がゆい。もしこれが、絵のように、何のフレームもなく、ただ自由に描けばよいものだったら、どんなに楽だろう。(決して画家の方やそういった方々の苦労を理解・尊重していないわけではありません)



こうして相対しつつ、私は絵への漠然とした憧れを持ち続ける。けれど、せっかく字が綺麗な書家でも、私は我儘だから、最近は絵っぽいものばかり書いている人を見ると、少しさびしい。私はいい字が見たいのだ、いい字には、絵にも勝る良さがあると、またしても矛盾したことを思う。いい字には、一瞬にして何かを吹き飛ばす力があって、それこそが書の真髄だと、信じている。



パリに帰ったら、多分いつか、絵のレッスンやアトリエに一度行くだろう。本格的に一度習ってみたい。そうしたらきっと、「絵、無理...」と言うかもしれない。絵への憧れを持ちつつ、文字の深い世界へとはまっていく。


 


篠田桃紅さんが亡くなった。107歳だった。1911年、明治生まれの祖母が98歳で亡くなったので、勝手に親近感を覚えている。私は篠田桃紅さんの作品はどれも繊細で、強く、美しくて、どれも好きだけれど、特にこれが好きというのはない。作品のどれか、よりも、彼女の生き様や、インタビュー映像で目にした「毎朝ね、飽きもせずに線ばかり書いて、これでもない、これでもないと思うのよ。ずーっとそんなことばっかり、線ばっかり」という、まるで漏れたため息のような言葉が好きだった。


毎日、ああでもない、こうでもないという線を探し続ける。それは永遠の旅。書という、白と黒の世界に魅せられたしまった人への、いわば課題のようなもの。


そして彼女の書く線には、どれも毎日、線の美を追求した人だからこそ出せる完璧な美がある。




どこから湧き出てくる気持ちなのか、てんで分からないのだけど、何もない、森の中の、孤独な一室に籠って、一心不乱に墨を擦り、理想の線を毎日追い求めるような制作生活に、強烈な憧れがある。実際には虫が苦手なので、少しでも自然の多いところには住めないというのに(笑)。


それでもこのような光景ばかり心に浮かんでくるので、どうしてなのかなと思っていると、ある時に母が言った。「私がそうだった、私が織物でもして、ものを作るような、職人に興味があった」と言ったのだった。正直これはすごく意外で、真面目に公務員として働きあげた母にそんな一面があったなんて知らなかったし、職人への憧れは、どちらかと言って、詩や、ものを書いたりする、父方の血なのかなと思っていたのだった。


子どもは案外、親の本当の顔というものを全然知らないのかもしれない。そんな風に思った。




篠田桃紅さんのご冥福をお祈りします。

  • Photo du rédacteurMari Okazaki

Dernière mise à jour : 25 mars 2021



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